Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー問答集~#031>問答(四)問4-6(全文)

#031-150718

問4-6 修行者は受念処(vedanānupassanā-satipaṭṭhāna)の修行をする時、刹那定(khaṇika-samādhi)だけを用いて出世間の境地に至る事ができますか?

答4-6

ここにおいて、我々は、先に刹那定について、定義を下さねばなりません。刹那定とは何でしょうか?二種類の刹那定があります。止禅の刹那定と観禅(vipassanā)の刹那定です。止禅には三種類の定があります、すなわち:刹那定(予備定)、近行定と安止定です。この刹那定は、特に、似相(たとえば、安般念似相)を縁にして対象としたもので、近行定の前の定において生起します。これは止観行者(samātha-yānika)について述べたものです。

純観行者(suddha-vipassanā-yānika)においては、また別の刹那定があります。純観行者は通常、四界分別観から修行を始めなければなりません。もし系統的に四界分別観を修行して、彼が色聚と、一つの色聚毎の中の四界が見えたならば、彼は近行定または刹那定に到達したと言えます。しかしながら、《清浄道論》の註釈では、この種の定は、真正の近行定ではなくて、これはただの比喩だ、と言うのです。というのも、真正の近行定は非常に安止定に近いからです。

もし修行者が四界分別観を修行するなら、彼は如何なるジャーナにも到達する事はできないのです。というのも、一粒毎の色聚の中の四界は非常に奥深く、玄妙だからです。彼は完全に一粒毎の色聚の中の四界を専注する事はできません。というのも、色聚は生起したとたんに、即刻、消滅するため、彼は深く専注する事ができないのです。一粒毎の色聚の中の四界は究竟色法(paramattha-rūpa)であり、それらは奥深く、玄妙で、もし定力が不足しているなら、それらをはっきりと見ることは非常に困難なのです。故に、四界分別観は如何なるジャーナをも生じさせる事ができません。このような事から、一粒毎の色聚の中の四界を縁として対象とする近行定は、決して真正の近行定ではなく、事実上は、刹那定に過ぎないのです。

観禅(vipassanā)の中にも刹那定はあります。《清浄道論》の中の安般念の部分で、この種の刹那定に触れています。安般念ジャーナを成就した止観行者が、観禅(vipassanā)を修行しようとする時、彼は先に初禅に入りますが、これは止禅です。初禅から出た後、彼は初禅の34種類の名法を識別します。その後に、これらのジャーナ法(jhāna-dhamma)の生滅を観察する事に依って、彼は無常・苦・無我を識別します。これと同じ方法で、彼は第二禅の修行を・・・。

その時、定力はまだ存在していますから、彼はジャーナ法の無常・苦・無我の本質に専注する事ができます。彼の定力が深くて強い時、心はその他の対象に移動するという事がありません。この種の定力は刹那定です。というのも、それの対象は瞬間的であり、生起しては、すぐに消滅するからです。

同様に、修行者が観禅(vipassanā)を修行するに当たって、究竟名色法とその無常・苦・無我の本質の因縁を透視する時、彼の心は通常、行法から離れるということはなく、彼の心は三相(無常・苦・無我)の中の一つに入り込みますが、これもまた刹那定と称します。ここにおいて、あなたは、観禅(vipassanā)の刹那定は、究竟名色法とその無常・苦・無我の因縁なる本質を徹底的に見る事であると、理解しなければなりません。もし、いまだ究竟名色法とその因縁を見る事ができないのであれば、なぜ観禅(vipassanā)の刹那定と呼ぶことができるのでしょうか?それは不可能です。故に、もし、修行者がいかなる止禅も修行しなくても、究竟名色法及びその因縁を徹底的に明確に見る事が出来るのであるならば、彼には止禅を修行する必要はない(と言えます)。しかしながら、もし究竟名色法とその因縁を透視する事ができないのであれば、彼は止禅の中の一種類を修行しなければなりません。というのも、ただ専注する心だけが、究竟名色法とその因縁を見る事ができるのですから。

《蘊品相応 Khandha Vagga Saṁyutta》と《諦相応 Sacca  Saṁyutta》の中で、仏陀はこう言っています「Samādhiṁ bhikkhave bhāvetha、 samāhito bhikkhave bhikkhu yathābhūtaṁ pajānāti」――「比丘たちよ、あなた方は禅定を育成しなければなりません。もし十分に強い定力があるならば、あなた方は如実に究竟名色法およびそれらの因縁を見る事ができます。」と。(定力があるからこそ~訳者)あなたは五蘊及びそれらの因縁を見る事ができる:あなたはそれらの無常・苦・無我の本質を見る事が出来る;あなたはそれらが、阿羅漢道と般涅槃の時に消滅するのを見る事ができる。

このようであるから、五蘊と、それらの因縁と、それらの消滅を理解するためには、修行者は、必ず定力を育成しなければなりません。同様に、四聖諦を理解するためには、修行者は、定力を育成しなければなりません。この事は≪諦品相応Sacca Vagga Saṁyutta≫の中に触れられています。

次に、修行者が感受を識別しようとする時、彼は以下の事実に注目しなければなりません。「Sabbaṁ bhikkhave anabhijānaṁ aparijānaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya・・・(P)・・・Sabbañca kho bhikkhave abhijānaṁ parijānaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dukkhakkhayāya」――「比丘たちよ、もし比丘が三種類の遍知(pariññā)でもって、すべての名、色及びそれらの因縁を理解する事ができないのであれば、彼は涅槃を証悟する事が出来ない。ただ三種類の遍知でもってそれらを理解する事のできる人だけが、涅槃を証悟する事ができる。」この部分の経文は、≪相応部・六処品・不通解経 Aparijānana SuttaSaḷāyatana VaggaSaṁyutta Nikāya≫に載っているものです。

  同様に、≪諦品・尖頂閣経 Kūtāgāra Sutta、 Sacca Vagga≫において、もし観智及び道智で四聖諦を理解する事が出来ないのであれば、生死輪廻(saṁsāra)から解脱する事はできないと開示されています。故に、修行者が涅槃を証悟したいのであれば、彼は三種類の遍知でもってすべての名、色及びそれらの因縁を理解するようにチャレンジする必要があります。

三種類の遍知とは何か?それは:

一、知遍知(ñāta-pariññā);すなわち名色識別智(nāmarūpa-pariccheda-ñāṇa)と縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)。これらは、すべての究竟名色及びその因縁を理解する観智。

二、度遍知(tīraṇa-pariññā 審察遍知):すなわち思惟知(sammmasana-ñāṇa)と生滅随観智(udayabbaya-ñāṇa)。この二種類の観智は、究竟名色とその無常・苦・無我の因縁の本質をはっきりと理解し、知る事が出来るもので、ゆえに、度遍知という。

三、断遍知(pahāna-pariññā):すなわち壊滅随観智(bhaṅga-ñāṇa)から道智の、これら上層の観智。

 《不通解経Aparijānana Sutta》と《尖頂閣経 Kūtāgāra Sutta》の中に書かれている教えは非常に重要です。故に、修行者は受念処から観禅(vipassanā)の修行を始めたいのであれば、彼は必ず下記の二点を順守しなけらばなりません。

一、彼にはすでに、究竟色法の識別が出来ている事。

二、だた感受のみを識別するだけでは足りない。彼は受相応のすべての名法を、六門心路過程に照らして、識別しなければなりません。

 

どうしてか?仏陀は開示して曰く:もし比丘が三種類の遍知でもってすべての名色とその因縁を理解する事ができないのであれば、彼は涅槃を証悟する事はできない(、と)。故に、究竟色法を徹底的に識別できていない前に、もし修行者が感受(たとえば:苦受等)を識別しようとしても、それでは不足しているのです。ここで言う「不足」とは、彼は涅槃を証悟する事ができない、という意味です。(完)(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 (本日は、パオ・セヤドーからの、非常に重要なメッセージをお届けします。修行者の方々の長年の疑問が氷解する事を願って・・・Pañña-adhika sayalay 敬白)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中は、ブログの更新を休みます)。