Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー問答集~#041>問答(五)問5-4

#041-150806

問5-4(以下の質問の答えは、共通しています)。

  1. 仏陀の時代に、菩薩はいましたか?もしいるとしたら、彼は何かの道果を証悟していましたか?それともただの一人の凡夫ですか?
  2. どうして聖者(ariya)は菩薩になれないのですか?
  3. 声聞2の弟子(sāvaka)は考えを変えて、菩薩になる事はできますか?もしできないとしたら、その原因は何ですか?
  4. もし禅師の教えに従って修行するならば、修行者は須陀洹道果(sotāpatti-maggañāṇa- and sotāpatti-phala-ñāṇa)を証悟する事ができます。修行者は菩薩道の誓願の為に道果に(あえて)証入しない、という事はできますか?

答5-4 道果に証悟する前、修行者は考えを変える事はできます。しかし、道果を証悟した後では、考えを変更する事はできません。仏陀は、多くの経の中で、「道」は「正性決定」(sammatta-niyāma固定的決定)であると開示しています。その意味は、すなわち、固定的な法則、という事です:須陀洹道(sotāpatti-magga)は須陀洹果(sotāpatti-phala)を生じさせます。初果須陀洹に到達し後、修行者は二果斯陀含(sakadāgāmi)を証悟する事ができますが、しかし凡夫に後退する事はできません。同様に、二果斯陀含は三果阿那含(anāgāmi)を証悟する事はできますが、初果須陀洹又は凡夫に後退する事はできません。同様に、三果阿那含は四果阿羅漢を証悟する事はできますが、初果須陀洹、二果斯陀含または凡夫に後退する事はできません。阿羅漢は死後、般涅槃に入りますが、それより低い聖位や、凡夫、または他の境地に後退する事はありません。阿羅漢の段階は最後の段階になります。これが正性決定(sammatta-niyāma)の法則です。阿羅漢の段階については、仏陀は何度も「Ayamantimājāti natthidāni puna bhavāti」―― 「これが最後の生であり、二度とふたたび生まれない、ない」と、開示しています。

しかし、道果を道果を証俱する前、修行者は考えを変更して菩薩になる事を決定する事はできます。しかしながら、正性決定の法則によって、どれか一つの道果を証悟した後では、菩薩になりたいという変更はできません。

また、仏陀または阿羅漢の授記を得る前、弟子は得ようとしていた証悟を変更する事はできます。もし、仏陀又は阿羅漢の所から授記を得た後では、二度と変更する事はできません。たとえば、ある大長老は正念を保って四念処にずっと専注していました。彼は止観を修行して行捨智にまで到達しましたが、これまで一度も正念に欠けた行為や発言をした事がありませんでした。彼の臨終の時、大勢の人々が彼に会いに、集まって来ました。というのも、彼らは大長老が般涅槃すると思ったからです。実際は、大長老はまだ一人の凡夫であって、彼は弥勒仏に会いたいと思っていました。弥勒仏の教化の時代に阿羅漢果を証悟したいと思っていて、それは彼の心願でした。弟子が彼に言いました「大勢の人々が集まって来ています。彼らは大長老が般涅槃すると思っているのです」と。大長老は「おお、私は弥勒仏に会いたかったのだが、しかし、大群衆が集まって来て、私が般涅槃するのを見る為に待っているのならば、私に修行の機会を与えてほしい」。そして、その後に、彼は観禅(vipassanā)を修行しました。彼は考えを変え、非常に速く阿羅漢果を証悟しました。このように、授記を得る前であれば、修行者は自分の決意を変える事はできます。授記を得た後では、二度と変更する事はできません。

仏陀在世の時、弥勒菩薩以外に、経典上では仏陀が他の菩薩に授記を与えたという記録はありません。当時、弥勒菩薩はアジタ(Ajita)という名の比丘でした。しかし、三蔵の中では、弥勒仏の後、いつ仏がこの世間に現れるか書かれていないので、我々は仏陀の時代に何人の菩薩がいたか、知る事が出来ません。(完)

(翻訳文責Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中は、ブログの更新を休みます)。