南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー問答集~#049~#053>問答(六)問6-1~問6-5

☆ 11月より長期リトリートに入る為、公開文が少し多めになります。

#049-150809

問6-1 安般念を修行しても、禅相を見る事が出来ない修行者は、どのようにして自己の心身の検査をするのでしょうか?どのようにすれば、彼の修行は、上達してかつジャーナに到達する事ができますか?いいかえれば、禅相の生起にはどのような条件が必要ですか?

答6-1 どのような種類の修行の法門でも、不断に継続する事は不可欠です。安般念を修行する時、身体がどのような状況にあろうとも(一切威儀)あなたは呼吸の気息に専注する必要があります、(気息に対して)慎重で尊重する態度で・・・。歩く時、立つ時、座る時、横になる時、あなたは気息をのみ注意して、気息以外の対象を縁にとってはいけません。その意味は:その他の対象に注意を向けてはいけません。雑念・妄想をやめるようチャレンジし、人と話すのも止めます(禁語)。もしあなたが不断に継続してこのようにするならば、定力は徐々に進歩します。ただ深くて強く力のある定だけが禅相を生む事ができます。もし禅相(特に似相)がないのならば、修行者はジャーナに到達する事ができません。というのも、安般念ジャーナの対象は安般念似相だからです。

#050-150809

問6-2 座る姿勢が初心者の専注とジャーナに入る能力に影響を与えますか?ある種の修行者は椅子に座って修行していますが、彼らはジャーナに入る事ができますか?

答6-2 初心者について言えば、歩く、立つ、座る、横になるという四つの威儀の中で、座る姿勢が最も修行に適しています。しかし、安般念を修行している人の内で、十分なハラミツを有している人は、どのような姿勢でも簡単にジャーナに入る事ができます。長く修行して熟練している修行者は、どのような姿勢でもジャーナに入る事ができます。故に、もし十分なハラミツがある時、または十分に熟練している修行者は、どのようなタイプの椅子に座っても、ジャーナに入る事ができます。

ここでは、シャーリプトラ尊者とスバッティ尊者が大変によい例になります。シャーリプトラ尊者は滅尽定(nirodha-samāpatti)の精通者でした。托鉢の為に村に入ると、彼は一軒ごとの戸口で供養を受ける前に、先に滅尽定に入り、滅尽定から出た後でしか供養を受ける事はありませんでした。これは彼の一貫した、変わらぬやり方でした。

スバッティ尊者は慈心観(mettā-bhāvanā)の精通者でした。彼は、一軒ごとの戸口で供養を受ける前に、先に慈心禅(mettā-jhāna)に入り、慈心禅から出た後でしか供養を受ける事はありませんでした。どうしてか?彼は施主に最大の利益を得られるように願っていたからです。彼らは、彼らがこのようにすれば、無量で殊勝な善業が施主の心路過程の中に生まれるのを知っていました。彼らは施主に対して、多くの慈悲がありましたから、このようにすることを好みました。あなたも同様の態度で以て、安般念ジャーナについて考えて下さい。

#051-150809

6-3 安般念第四禅の対象は何ですか?もし第四禅ではすでに息がないというのであれば、禅相はどうなりますか?

6-3 安般念の第四禅では、入る息・出る息はありませんが、安般念似相は依然としてあります。このような状況の下では、安般念似相は入出息(assāsa-passāsa)であると言えます。というのも、安般念似相はやはり自然の呼吸によって生じるからです。《無礙解道 Paṭisambhidāmagga》の註釈及び《清浄道論》の註釈では、この事を解説しています。

#052-150809

問6-4 修行者は安般念から直接無色禅(arūpa-jhāna-samāpatti)に入るか、又は安般念から慈心観の修行に転換する事が出来ますか?

答6-4 安般念の第四禅から直接無色禅にいく事はできません。どうしてか?無色禅(特に空無辺処禅 ākāsānañcāyatana-jhāna)は、先に遍相を取り除いておかなければなりません。もし遍相を取りのぞかないか、または遍相を「抜き取って(=訳者注~心が遍相から抜け出してしまうという意味?)」しまったならば、修行者は空無辺処禅に到達する事ができません。遍相を取りのぞいてしまった後、空間(ākāsa)を専注すると、空無辺処禅の対象が生起します。修行者に空間が見えた時、彼は徐々に空間を拡大します。空間が各方面に広がり展開した後、遍相は消失します。修行者はこの空相を無辺の宇宙まで、引き続き広げ展開していきますが、この空相が空無辺処禅の対象です。次に、識無辺処禅(viññāṇañcā-yatana-jhāna)の対象は空無辺処禅心です。無所有処禅(ākiñcaññāyatana-jhāna)の対象は空無辺処禅心の不存在を対象とします。非想非非想処禅(nevasaññānāsaññāyatana-jhāna)の対象は、無所有処禅心です。このように、四無色禅は遍処の第四禅及び遍相を基礎としている為、遍相を取りのぞかなければ、無色禅に入る事はできません。故に、修行者は安般念を修行して第四禅に到達して、引き続き無色禅に入りたいと思うのであれば、彼は先に十遍を修行して第四禅に到達しておかなければならず、その後で無色禅に入る事になります。

もし、彼が安般念第四禅から慈心観(mettā-bhāvanā)に修行を変更したいと思うとき、これは可能であり、問題はありません。あれは安般念第四禅の光で以て、慈心観の対象になるその人に照見します。もし彼の光が強くなければ、少し問題が出ますが、このような状況はあまり多くありません。彼が第四禅(特に白遍第四禅)に到達した後、慈心観を修行するならば、非常に早く成功します。その為、白遍の(修行が成功した)後で、我々は修行者に慈心観を教えます。

#053-150809

6-5 どのようにすれば、自分の臨終の時を決定する事ができますか?(すなわち:臨終の時間を選択する事)?

6-5 もしあなたが安般念を修行して阿羅漢に到達したならば、確定的に自分の涅槃の時間を知る事ができます。《清浄道論》は、歩いている最中に般涅槃を証入した大長老の話があります:先に彼は自分が行禅(経行)している道路の上に一本の線を引き、その後に一緒に修行している道友に「私はあの線の所まで来たら般涅槃します」と言い、結果的に、完全に彼の言った通りの事が起こりました。いまだ阿羅漢を証悟していない人にとっては、縁起法(paṭiccasamuppāda)を修行する事によって、過去、現在、未来の因果関係を透視する事を通して、自分の寿命を知る事ができます。ただ先ほど述べたような大長老程正確であることは不可能であり、確実な時間を知る事ができず、ただ死亡する大体の時期を知る事はできます。

しかし、彼らは業果の法則に従って般涅槃または死亡するので、自己の念願による訳ではありません。ここにシャーリプトラ尊者が詠じた偈があります。「Nābhinandāmi jīvitaṁ nābhinandāmi maraṇaṁ;kālañca paṭikaṅkhāmi、nibbisaṁ bhatako yathā」――「私は生を愛さないし、死も愛さない。ただ般涅槃の時を待つ。まるで官吏が給与の配られる日を待っているように」。

「自分の希望する時間に死亡する事」は「決意死」(adhimutti-maraṇa勝解死)と言います。この種の勝解死は、通常はハラミツが成熟した菩薩だけが実践できます。どうしてか?というのも、彼らが天界に生まれると、そこはハラミツを積める環境にないので、時間を浪費したくないと思って、「決意死」を決意する事があります。すなわち、自分の決めた時間に死のうとします。その後人間界に生まれて、引き続きハラミツの修行をして、ハラミツを積むのです。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中は、ブログの更新を休みます)。