Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#055>問答(六)問6-7

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#055-150811

問6-7 道果を証悟した聖者(ariya)は、もはや凡夫(puthujjana)に退く事はありません。これは正性決定(sammatta-niyāma)の法則です。同様に、授記を得た人は菩薩行を放棄する事はできませんが、これも正性決定の法則です。しかし、仏陀は一切の法は皆無常であると宣言しました。上述の正性決定は無常の法則に合致しますか?しませんか?

答6-7 ここにおいて、あなたは業の法則を理解しなければなりません:悪業(akusala-kamma不善業)は悪報を生じ、善業(kusala-kamma)は善報を生じます。これは恒常不変の法則です。では、善業と悪業は常(nicca)ですか、それとも無常ですか?

この問題を考えて下さい。

もしあなたが、善業が恒常であると思うならば、以下の事を考えてみて下さい:現在、あなたはまさに仏陀の教え

た≪アビダンマ≫を聞いています。これは聞法の善業(dhammasāvana-kusala-kamma)です。この善業は恒常ですか?この問題を考えてみてください。

もし、この善業が恒常であれば、この一生の間で、あなたはこの業しかなく、その他の善業も悪業もないことになります。あなたは理解しますか?善業は善報を生じ、悪業は悪報を生じせしめます。これは恒常の法則です:しかし、我々は、善業と悪業自体は、恒常である、と言った事はありません。善思(kusala-catanā善なる動機)と不善思(akusala-catanā 不善なる動機)は業といい、これらの業は生起するやいなや、即刻消滅します。これが無常で、無常がそれらの本質です。しかし、業力(個別の果報を生じさせる事が出来る潜在的エネルギー)は依然として名色の過程の中に存在しています。

仮に、ここに一本のマンゴーの木があるとします。今現在は木には果実は実っていません。しかし、いつかある日、それは果実を結びます。あなたは、果実を生じせしめたそのエネルギーは、マンゴーの木の中に存在していると言えます。そのエネルギーとは何でしょうか?もし我々が木の葉、木の枝、木の皮や幹を研究したとして、我々はどうしてもそれらのエネルギーを見つけ出す事はできないでしょう。しかし、そのエネルギーが目には見えなくても、我々はそれが存在しない、とは言えないのです。というのも、いつかある日、マンゴーの木には、実がなるからです。同様に、我々は善業や悪業が恒常であるとは言わないのです;我々は業力は潜在的なエネルギーの形で、名色の過程の中に存在していると言います。そしていつかある日、そのエネルギーが熟した時、それは果報を生じます。

今、我々は「正性決定」(sammatta-niyāma)について論議しましょう。我々は、道法(magga-dhamma)は正性決定的な法であると言います。しかし、我々は、道と果が恒常(nicca)であるとは言いません。それらもまた無常です。しかし、道智の力は道果の証悟と涅槃者の名色過程の中に存在しています。その力もまた正性決定と言い、それは一層また一層と高い果位を生じせしめ、それより低い果位を生じせしめる事はありません。この事は恒常不変の法則です。ここであなたは、以下の事を考慮するべきです:阿羅漢果を証悟するのは容易な事ではなく、非常に多くの精進を支えに修行しなければなりませんし、同時に、堅固な気力も必要です。たとえば、我々の釈迦牟尼菩薩は、彼の最後の生において、一切知智(sabbaññuta-ñāṇa)と相応する阿羅漢果を証悟する為に、非常に精力的に六年間の苦行を行いました。あなたはそれがどれほどの艱難辛苦であったか、想像できますか?故に、もし無数の困難を経て阿羅漢果を証悟した後に、彼がまた再び凡夫(puthujjana)に戻るのだとしたら、修行の成果はどこにあるのでしょうか?あなたはこの事を仔細に考えてみてください。

今私は、どのような状況の下で、菩薩は授記を得られるのかを解説します。

「Manssattaṁ liṅgasampatti、hetu satthāraasanaṁ;pabbajjā guṇasampatti、adhikāro ca chandatā;Aṭṭadhammasaodhānā abhinīhāro samijjhati」

下記の八つの条件を満たすとき、彼は授記を得る事ができます:

  1. Manussattaṁ:人として生まれる。
  2. Liṅgasampatti:男性として生まれる。
  3. Hetu(因または根):彼には充分なハラミツがあり、ただ仏陀の四聖諦に関する簡単な短い偈を聞くだけで、阿羅漢果を悟る事が出来る。その意味は:彼は徹底的に観禅(vipassanā)を修行して、行捨智(saṅkhārupekkhā-ñāṇa)に到達していなければならない。
  4. Satthāradassanaṁ(仏に会う):彼は仏陀に会う。
  5. Pabbajjā(出家):彼は出家して隠者になるか比丘になる。
  6. Guṇasampatti:(善なる徳の成就):八定(samāpatti)と五神通(abhiññāṇa)の修行の成功。
  7. Adhikāro(増上行):彼には授記を受けるだけの十分なハラミツが備わっている事。その意味は:彼は過去世において、一切知智(sabbañuta-ñāṇa)を修行して証悟したハラミツがあって初めて、仏陀から授記を受ける事ができる。言い換えれば、彼はかつて過去仏の教化の時代に、一切知智の智慧(vijjā)と正行(caraṇa)の種をまいておかねばならない。《アショダーラー比喩経Yasodharā Apadāna》によると、後の悉達多太子とヤショーダラー妃は、数千万尊仏の前で、釈迦牟尼菩薩の一切知智の為に発願し、かつ、これらの仏の指導の下、あらゆるハラミツの修行を行った。
  8. Chandatā(強烈な念願):彼には一切知智を成就したいという強烈な念願がなければならない。この念願はどれほど強くなければならないか?たとえば全世界が燃え上がった炭で充満しているとして、ある人が彼に「もしあなたが世界のこの端から、燃え上がっている炭の上を歩いて、世界のもう一つの端まで行けるのであれば、一切知智を成就できるでしょう」と言ったとして、彼は必ずや一つも猶予する事無く、その火のついた炭の上を歩くでしょう。今、私はあなたに聞きますが、あなたはその熾烈に燃え上がる炭の上を歩きたいと思いますか?とりあえず、全世界に充満している火のついた炭の事は横において、もし台湾から緬甸(ミャンマー)のパオ村まで、燃え上がる炭が充満しているとして、あなたはその道を歩きたいと思いますか?もし答えが yes であれば、あなたはそのような強烈な念願でもって、一切知智を証悟する事ができます。菩薩は燃え盛る炭の上を喜んで歩きます。これが一切知智を証悟しようとする時の強烈な念願なのです。どうして授記は「決定的」なのでしょうか?それは変更される事がありません。我々は、それを特に恒常であるとは言いません。燃灯仏の名色法は無常なるものです。善慧菩薩の名色法もまた無常なるものです。これは事実です。しかし、菩薩が一切知智を未だ証悟していない時、その業力(特に彼のハラミツ)は消失しません。燃灯仏の対話(すなわち授記)も変更されませんし、嘘ではありません。もしそれらの対話が変更されたならば、授記も真実ではありません。そうすると、もう一つ別の問題が発生します。すなわち、仏陀は嘘を言うのか、という問題です。仏陀はただ上述の八つの条件を全部満たしたのを見てとった時、授記を与えます。たとえば、農業に精通している人がバナナの木を見た時、彼はあなたに告げる事が出来ます「このバナナの木は、四か月後にバナナの実をつけます」と。どうしてそう言えるのか?彼が農業に精通している事と、かつ、彼がバナナの木に花が咲いていて、細い葉が出ているのを見たから、です。同じ事で、ある人が上述の八つの条件を満たしている時、仏陀は、彼が一切知智の果を証して得る事ができる事が知れるのです。これが、なぜ仏陀が授記を与える事ができるのかという理由です。ここで、私はもう少し説明を加えたいと思います。発願または希望だけでは、一切知智を証悟する事はできません。菩薩が授記を得る時、彼らは八つの条件が必要でした。さらに言えば、授記だけでは、仏陀になる果を得る事はできません。授記を得たとしても、その後で、彼らは引き続き修行し、三種類の段階における十のハラミツを備えなければなりません。
  9. 燃灯仏の時代、我々の釈迦牟尼菩薩は、善慧隠者で、一人の凡夫(puthujjana)でした。最後の一生において仏陀となるよう証悟する前、彼はやはり一人の凡夫でした。ただ、証悟した後にのみ、釈迦牟尼仏となったのです。一切知智と相応する阿羅漢果を証悟した後、彼は彼の阿羅漢果を変更する事はできません。これは正性決定(sammatta-niyāma)の法則です。ここで言う正性決定の法則とは:阿羅漢道の結果は変更する事ができない、という事です。ここでは、我々は阿羅漢道は恒常であるとは言いませんが、我々は阿羅漢道の結果は、一種の変更不可能な業力だと言います。これは結局何を言っているのでしょうか?阿羅漢道は阿羅漢果を生じせしめます。これは必然です;そして、阿羅漢道はあらゆる煩悩、あらゆる悪業とあらゆる善業を滅除しますが、これも必然です。これらの煩悩、悪業と善業が未だ滅除されていないのであれば、般涅槃の後、それらの果報が生じます。この種の業果の法則は正性決定と言われ、それは変更される事はありません。故に、正性決定と授記は、無常の法則に反するという事はありません。
  10. もし菩薩がこの八つの条件を備えているならば、彼は必然的に仏陀の授記を得る事ができます。我々の釈迦牟尼菩薩は、燃灯仏(Dīpaṅkara Buddha)の時には、善慧(Sumedha)という名前の隠者でした。彼はこの八つの条件を満たしていました。これが、なぜ彼が燃灯仏から「これより後、四阿僧義祇劫(asaṅkhyeyya)と十万劫(kappa)を経た後、あなたは必ず一切知智を証悟するでしょう。そして、あなたの族姓はゴータマ(Gotama瞿曇)と言います」というような授記を得られたのか、と言う理由です。
  1. 彼らは息子、娘、妻と財産を犠牲にする事を通して、十ハラミツを実践しなければなりませんが、これは十種類の普通レベルのハラミツ(pāramī)です;
  2. 彼らは自分の四肢・身体と器官、たとえば目、腕等をもって十ハラミツを実践しなければなりませんが、これは十種類の中レベルのハラミツ(upapāramī 近ハラミツ)です。
  3. 彼らは自己の命を犠牲にして十ハラミツを実践しなければなりませんが、これは十種類の上等ハラミツ(paramattha-pāramī 最上ハラミツ)です。

 

合計で 30 種類のハラミツがありますが、もし我々がこの 30 種類のハラミツを帰納するならば、布施(dāna)、戒行(sīla)と止観修行(bhāvanā)になります。これらは上等の善業で、菩薩は生命のある財産と、生命のない財産、自己の四肢・身体と自己の生命をもってこれらの善業を完成させなければなりません。もしあなたが自分を菩薩であると信じるのであれば、あなたはこれらの善業を行えるか、又は、行いたいと思っていますか?もし実践出来るならば、そして、あなたもまた過去にある尊仏から授記を得ているのであれば、いつの日か、あなた一切知智を証悟する事が出来るでしょう。しかし、上座部仏法では、二尊または二尊以上の仏は、同じ一つの時期において世間に出現する事が出来ないのです;ある時間内では、ただ一尊仏しか出現する事ができません。また、彼らはどれほどの長い時間ハラミツを実践する必要があるでしょうか?我々の釈迦牟尼菩薩を例にとると、彼は授記を得た後、四阿僧祇劫と十万劫の時間をもってハラミツを実践しましたが、これは最短の時間です。そして、授記を得る以前、我々は彼がその前からどれほど長い時間修行したかを知る事はできません。このように、あなたは発願または希望だけでは仏陀に成る事は出来ない事を覚えておいてください。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。