Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#056>問答(六)問6-8

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#056-150812

問6-8 普通弟子(pakatiṭ-sāvaka本性弟子)が止観を修行して縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa)、生滅随観智(udayabbaya-ñāṇa)または行捨智に到達したなら、死後、彼は四悪道(apāya)に落ちる事がない。たとえ、放逸が原因で彼の止観が後退しても、止観を修行した事のある業力は依然として存在している。《耳随順経 Sotānugata Sutta》でも、彼は早くに涅槃を証悟すると書いてあります。では、なぜ禅師は6月2日の、質問に関する回答において、菩薩は仏から授記を受けた後(たとえ彼がすでに修行して行捨智に到達していても)でも、畜生道に落ちると言うのでしょうか?このような内容は、どのお経に書いてあるでしょうか?

答6-8 これは菩薩道と普通弟子の状況が異なるからです。もしあなたがパーリ聖典を調べたいならば、≪仏種姓経 Bhddhavaṁsa≫と《行蔵Cariyapiṭaka》を参照するといいでしょう。

この二つの状況はどうのように、異なるのでしょうか?

菩薩はすでに仏から授記を得ているけれども、しかし、一切知智の波羅蜜がまだ成熟していないため、彼は波羅蜜が成熟するまで努力しなければなりません。たとえば、我々の釈迦牟尼菩薩は燃灯仏から授記を得た後、四阿僧祇劫と十万劫の時間、波羅蜜が熟すまで、波羅蜜を育成しなければなりませんでした。授記を得た後から最後の一生までの間、菩薩は過去に作った悪業の為に、畜生道に生まれた事もありました。その時、彼はまだそれらの悪業の業力を滅除する事が出来ないので、業力が熟して果報を結実させる時には、それを避ける事ができず、彼は果報を受け取らざるを得なかったわけですが、これは不変の法則です。

しかし、すでに縁摂受智、生滅随観智または行捨智に到達している普通弟子について言えば、彼らは道智(magga-ñāṇa)と果智(phala-ñāṇa)を証悟する波羅蜜はすでに熟しており、故に彼らは、次の来世で道果を証悟し、涅槃を徹底的に知る事になりますが、これも不変の法則です。この種の不変の法則は、業力の形式で顕現します。それは究竟の現象または究竟法(paramattha-dhamma)ではありません。究竟法だけが、無常であり、業力は無常ではありません。それは善業のエネルギーであって、我々はそれを波羅蜜と称します。その善業(特に善思 kusala-cetanā)は究竟法であり、その究竟法のエネルギーは業力であり、業力と究竟法は同じものではありせん。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。