☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。
#066-150815
問7-6 色聚(rūpa-kalāpa)と究竟色(parmattha-rūpa)とは、どのように異なりますか?
答7-6 色聚とは極微小な粒子です。修行者はこれらの色聚を分析できたならば、彼は究竟色(parmattha-rūpa)を見る事ができるようになります。一粒毎の色聚の中には少なくとも八種類の色があります:地界、水界、火界、風界、色彩、香り、味と食素で、この八種類の色は、究竟色です。ある種の色聚には、九種類の色がありますが、それは命根色(jīvita-rūpa)が含まれるからです。ある種の色聚の中には十種類の色がありますが、それはその上に性根色(bhāva-rūpa)または浄色(pasāda-rupa)が加わるからです。これら九種または十種の色もまた究竟色です。
色聚6は究竟色ではなく、観智の対象ではありません:一粒毎の色聚の中にある究竟色(parmattha-rūpa)こそが観智の対象です。もし、迅速に生滅する色聚を無常・苦・無我とみなして、観禅(vipassanā)の修行をするならば、それは虚偽の観禅であり、真正の観禅ではありません。一粒毎の色聚の中の究竟色だけが、真正なる観禅の対象です。ですから、あなたが色聚を見る事が出来たならば、あなたはそれらの分析にチャレンジし、かつ究竟色のみを識別し、それらの究竟色を透視する事を通して、観禅を修行するの(が正しいの)です。
ある種の修行者は微粒子(色聚)を見ても、それら7を分析する事ができず、それらの微粒子の生滅を観察する事によって、無常・苦・無我の修行をします。仏陀の教えた≪アビダンマ≫によると、それらの微粒子は、ただの概念法(paññātti)にすぎないのであり、概念法は観智の対象ではありません。故に、もし彼らがそのように修行するならば、それらの微粒子は徐々に消失して、ただ白い透明な物質だけが残ります。彼らはその白い透明な物質を専注するため、それが色法の消滅だと思ってしまうのです。彼らは、白色の透明な部分の空間(ākāsa)に注意すると、また微粒子が見え始める事を知らないのです。どうして彼らは理解しないのか?なぜなら、彼らは系統的に四界分別観を修行した事がなく、彼らは、もしかしたら、ただ一つの界または幾つかの界だけを対象にして、修行したのかも知れません。そうではあっても、彼らは彼らの波羅蜜のおかげで、微粒子を見る事はできます。しかし、彼らは一粒毎の微粒子の四界を分析する事はできないのです。そして、それらの微粒子が消失して、ただ白色の透明体だけが残った時、彼らは白色の透明体の中の空間に注意すべきだという事も知らないのです。その為に、それを色法の消滅だと誤解するのです。
彼らが白色の透明体に専注する時、彼らの心は、有分心(bhavaṅga)に落ちる事がありますが、彼らは、それを名法の消滅だと思うのです。こうして、彼らは、すでに名色法の消滅した涅槃に到達したと誤解します。実際は、彼らは、名色識別智(nāmarūpapariccheda-ñāṇa)にも到達していないのです;名色識別智こそが、観禅(vipassanā)の始まりなのです。
上記の事から、観禅(vipassanā)を修行する時、あなたもこれらの事実を覚えておくべきです。
#067-150815
問7-7 修行者が色聚と究竟色を識別できるようになった時、彼の心(citta)と見(diṭṭhi)は変化しますか?
答7-7 彼が観智でもって一粒毎の色聚の中の究竟色を見る事が出来た時、彼の心と見は、一時的に変化します。というのも、観智は邪見とその他の煩悩を除去する事ができるからです。聖道(ariyamagga)を証悟した後、彼は徐々に、完全に、邪見とその他の煩悩を滅する事が出来ます。
#068-150815
問7-8 禅定は如何にして心を清浄(citta-visuddhi)にしますか?禅定は、どのような煩悩を滅する事ができますか?
答7-8 禅定は、ちょうど五蓋と相互に対立します。近行定と初禅の安止定は長時間五蓋を取り除く事ができます;第二禅は尋(vitakka)と伺(vicāra)を取り除く事ができます;第三禅は喜(pīti)を取り除く事ができます。第四禅はさらに楽(sukha)を取り除く事が出来ます。このように、禅定の心はすでに浄化された心であって、故に禅定を心清浄(citta-visuddhi)と言います。
#069-150815
問7-9 観禅(vipassanā)は如何にして見を清浄(diṭṭhi-visuddhi)にしますか?観禅はどのような煩悩を滅する事ができますか?
答7-9 究竟名色、それらの因縁とそれらの無常・苦・無我の本質を透視する前、修行者は誤った見解、または間違った考えを持ちます。たとえば「これは男性、女性、母親、父親、自分自身・・・」。しかし、彼が究竟名色、それらの因縁とそれらの無常・苦・無我の本質を透視する時、この種の間違った見解は一時的に消失します。どうしてか?彼は、ただ究竟名色と因縁だけがあるのみ、という事を見るからです。彼はまた、それらが生起するや否や、即刻消滅するのもみますが、これはそれらの無常の本質です。それらは常に絶え間ない生滅変化にさらされており、これは、それらの苦の本質です。これらの名色の中には、自我というものはなく、故にそれらは無我であり、これがそれらの無我の本質です。これこそが観智(vipassanā-ñāṇa)であり、これこそが正見(sammatta-diṭṭhi)です。正見は邪見を取り除く事ができ、邪見に付随して起こる煩悩を取り除く事ができます。たとえば、貪愛と驕慢です。修行者が観禅(vipassanā)を修行する時、彼には正見があります。しかし、彼が修行を止めたならば、不如理作意(ayoniso-manasikāra)の為に、邪見が再度生起します。そして、彼は再度「これは男性、女性、母親、父親、自分自身・・・」と思うのです。このような考え方によって、相応する煩悩は:たとえば:貪愛、驕慢、瞋恚等で、邪見によって再度、生起するのです。しかし、彼が再び観禅(vipassanā)を修行したならば、邪見は再び消失します。このように、観智は暫定的にしか、邪見とその他の煩悩を取り除く事ができません。しかし、もし道と果に到達したならば、彼の道智(magga-ñāṇa)は、徐々に、完全に邪見と煩悩を消滅させる事ができます。(完)
(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)
初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。