Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#074~#079>問答(七)問7-14~問7-19

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#074-150819

問7-14 憤怒と恨みの心は、多くの代の時節生八法聚(utuja-ojaṭṭhamaka-kalāpa)を生みますか?そして(それが原因で)目が、怒りで光る事がありますか?

答7-14 それはただの比喩の一種に過ぎません。実際は、結生心(paṭisadhi-citta)以外、心処(hadaya-vatthu)に依存して生起するすべての心は、心生色聚(cittaja-kakāpa)を作る事ができます;これらの色聚の中には、必ず色彩(vaṇṇa)があります。もし当該の心が止禅心または観智に相応する観禅心である時、その色彩は非常に明るいです。この事は、パーリ経典、注釈及び復註の中で述べられていますが、憤怒と恨みの心によって作られた心生色法もまた光を生じるとは書かれていません。故に、それはただ比喩の一種だという事です。

#075-150819

問7-15 名色を識別する心もまた、名色に含まれますか?それは智慧に含まれますか?

答7-15 観禅(vipassanā)のすべての段階において、あなたはこの種の心を識別する事ができます、特に壊滅随観智(bhaṅga-ñāṇa)の時には。まさに《清浄道論》が言うように:「Nātañca ñāṇañca ubhopi vipassati」――「我々は所知(nāta)と能知(ñāṇa)の二者に対して、観禅(vipassanā)を修行しなければならない」ここで言う所知は、五蘊とそれらの因縁を指し、これらは観智によって認知されるべき対象です。能知とは観智の事で、観智は五蘊及びその因縁(すなわち、有為法または行法 saṅkhāra-dhamma)の無常・苦・無我の本質を認知する事ができます。ここでいう観智は智慧であり、観禅正見であります。通常観禅正見は33または32の名法と同時に生起します。故に、全体では、34または33の名法があることになります。これらは(ひとくくりに)観智といい、それらは名法です。というのも、それらは対象――行法の無常・苦・無我の本質に向かうからです。

なぜ、観智自身を無常・苦・無我であると識別する必要があるのでしょうか?というのも、ある種の修行者は、以下のように質問するか、または疑問に思う事があるからです:観智自身は、常または無常か?楽か苦か?我か無我か?と。この問題を解決するために、あなたは観禅心路過程自身を識別する必要があります。特に、観智を主にした、一つの速行刹那毎の34個の名法を識別しなければなりません。あなたは、それらを無常・苦・無我として識別しなければなりません。さらに、ある種の修行者は、彼らの観智に執着する事があります:ある種の修行者は、観禅(vipassanā)を明晰に、持続的に修行できる事によって、驕慢になる事があります。これらの煩悩を取り除くために、あなたは観智または観禅心路過程を無常・苦・無我と識別する必要があるのです。

#076-150819

問7-16 長時間修行する時や、一人で森林に住んでいる時に生じる退屈感や、イライラをどのように克服すればよいですか?この種の心は不善心ですか?

答7-16 この種の心は、怠慢(kosajja)といいます。通常は、貪または瞋恚などに相応する微弱な不善法です。この種の心は不如理作意によって生じます。もし、修行者がこの不如理作意を止めて、如理作意に取り換える事ができれば、彼の修行は成功するでしょう。時々は、あなたは我々の釈迦牟尼菩薩が成道できたのは、堅忍不抜の気力によってであった事を思い出してください:あなたはまた、それらの修行に精進して、大きな障害に会いながらも、阿羅漢果を成就した物語を思い起こして下しさい。奮闘努力を避けるならば、卓越した成就を得る事ができるません。特に、修行の過程において、忍耐は必須の条件です。如理作意も非常に重要です。あなたは有為法の無常・苦・無我の本質に注意するようチャレンジしてください。もしこのように出来るならば、あなたは、いつの日にか、成功するでしょう。

#077-150819

問7-17 禅師、無明(avijjā)、愛(thanhā)、取(upādāna)と相応しない願望について、例を上げて説明してください。

答7-17 善業をなしている時、もしあなたが観禅(vipassanā)を修行する事がで、かつそれらの善業の無常・苦・無我の本質を識別できたならば、無明、愛、取は、これらの善業と共には生起する事ができません。もし観禅(vipassanā)を修行できないのであれば、あなたは、以下の願望を発してください。

「Idaṁ me puññaṁ nibbānassa paccayo hotu」――「この善業が涅槃を証する助縁となりますように」

#078-150819

問7-18 もし五蘊が無我であるならば、誰が仏法を開示しているのでしょうか?言い換えれば、五蘊が無我ならば、禅師が仏法を開示している事はない(訳者注=禅師はいないので、開示という行為もない)。五蘊と我とはどのような関係にありますか?

答7-18 二つの真理があります。

  1. 世俗諦(sammuti-sacca世俗が認定する真理);
  2. 真諦(paramattha-sacca 究竟勝義の真理)。あなたは、この二つ真理の区別をしっかり識別しなければなりません。世俗諦から言えば、仏陀、禅師、父親、母親・・・はいます。しかし、真諦から言えば、仏陀、禅師、父親、母親・・・はいません。もし十分に強い観智があるならば、あなたはこの事を透視する事ができます。もしも、観智でもって仏陀を観察したならば、あなたは究竟の名色または五蘊を見るでしょう。それらは無常・苦・無我で、我というものは、一つも存在していません。同じく、観智でもって、禅師、父親、母親・・・を観察するならば、あなたはやはり、究竟名色または五蘊を見る事が出来るだけであり、それらは無常・苦・無我であり、我というものは、一つも存在していません。言い換えれば、仏陀、禅師、父親、母親・・・はいません。これらの五蘊とその他の因縁は、行法と言いますが、故に行法が行法を開示しており、また涅槃を開示する事もあります。そこには完全に我という存在はありません。

例を上げて言うと、もし、人があなたに「ウサギの頭にある角は長いか?短いか?」と尋ねた時、あなたはどのように答えますか?またある人があなたに「亀の毛は黒いか白いか?」と尋ねたなら、あなたはどのように答えますか?もし「我」が元から存在しないのであれば、我々は「我」と五蘊の関係について、解説する事ができません;仏陀でさえも、この種の問題には答えませんでした。どうしてか?もし、あなたが兎の角は長いと答えたならば、兎には角があるという事になります。もしあなたが兎の角は短いと答えたならば、同様に、兎には角があるという事になります。次に、あなたが亀の毛は黒いと答えたならば、あなたは亀には毛があると認めた事になります。もしあなたが亀の毛は白いと答えたならば、同様に、あなたは亀に毛がある事を認めた事になります。同じ理屈で、もし仏陀五蘊と我の関係を説明したならば、そう答える事によって、仏陀が我の存在を認めた事になります。もし仏陀が我と五蘊は関係がないと答えたならば、この答えは同様に、仏陀が我を認めた事になります。これが、なぜ仏陀がこの種の問題に返事をしなかったのか、という理由です。故に、私は、あなたに、観禅(vipassanā)の段階まで修行する事をお勧めします。その時、あなたはこの種の我見を取り除く事ができるでしょう。

#079-150819

問7-19 仏陀はかつて、比丘に蛇呪を教えました。蛇呪をとなえる事と慈心観は同じことですか?呪文をとなえる事は、バラモン教の伝統が、仏教に取り込またのではないですか?

答7-19 呪とは何ですか?蛇呪とは何ですか?私は呪文がインド教(訳者注=バラモン教ヒンズー教等)からの流入であるかどうかは知りません。しかし、上座部三蔵の中に、守護経(paritta-Sutta)というのがあり、名称は ≪蘊守護経 khandha Sutta≫ といいます;仏陀は、この守護経を、毎日となえるよう比丘を指導しました。ある一つの戒(vinaya)によると:もし比丘または比丘尼が、毎日このお経(守護経)をとなえないならば、彼または彼女は、軽罪を犯す事になります。いわゆる「このお経」とは《蘊守護経》の事です。仏陀ご在世の時、森林に住んでいた一人の比丘が、毒蛇に咬まれて死にました。この事件によって、仏陀はこの≪蘊守護経≫を教えました。このお経の目的は、慈心観と似ていて、お経には、異なる種類の蛇または龍に慈愛を届ける方法が述べられていますし、同時に、三宝、仏陀と阿羅漢への賞賛も含んでいます。今夜、私はこの守護経をとなえましょう。この守護経は大変に霊験あらたかで、あなたはそれを蛇呪と呼んでもいいし、あなたの好みで、別な何かの名前をつけてもかまいません・・・名前は重要ではありません。緬甸(ミャンマー)では、比丘は毒蛇に咬まれた人に、このお経を唱えてあげますが、とても効果があります。彼らは何度もお経を唱え続け、その後に被害者に守護水を飲ませますが、蛇の毒は、被害者から徐々に消えていき、通常は、彼らは皆、治ります。仏陀がこのお経を教えたのは、比丘が毒蛇に咬まれないように、との為です。もし比丘がこのお経を、心を込めてとなえ、かつ、一切の衆生・・・蛇類も含めて・・・に慈愛を届けるならば、彼に危険が生じるという事はありません。もし彼が戒律を守っているならば、彼は傷つけられる事はありません。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。