Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#088,089,090,091>問答(八)問8-9,8-10,8-11,8-12

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#088-150825

問8-9 慈心観、悲心観、喜心観はなぜ、第三禅に到達しても、第四禅には到達できないのですか?

答8-9 慈心観が、感情に近い作用を持つからです。たとえば「善人が精神的な苦痛に会いませんように・・・」という態度は、捨の態度ではありません。修行者の心は慈心で、彼はその他の衆生が精神的苦痛から離れられるようにという願望を持っています。このような態度は中立的平等的な捨(upekkhā)ではありません。捨心観第四禅は、完全に中立的な捨です;どの第四禅も中立的ですから、すべて捨受(upekkhā-vadanā)に相応します。このようにそれらの受が異なるのです。慈心禅の受は喜受(somanassa‐vedanā)または楽受(sukkha-vedanā)であるため、慈心禅は捨受を生じさせる事はできません。

同様に、悲心観もまた捨受を生じさせる事ができません。悲心観の態度は、その他の衆生の苦痛が取り払われる事ですが、それは楽受または喜受と相応します。捨心観の態度は中立的です。というのも、それは一人一人の業は、その人に属していて、自分が作る業によって、楽しさや苦しみを受けとっているのだと考えるからです。これが捨心観の本質的態度です。このように、二つの法門の態度が異なる為、異なる受が存在するのです。

同様に、喜心禅は喜び(pahāsa)に近いです。ここで言っているのは、修行者が他人の成功に対して、強烈な喜びを感じる、という事です。その歓喜心は、いつも喜受(somanassa‐vedanā)と相応します。捨心観第四禅は常に捨受と相応しますから、受が異なります。

このように、慈心観、悲心観、喜心観によって、修行者は第三禅に到達する事はできますが、捨心の第四禅に到達する事はできません。

#089-150825

問8-10 有分(bhavaṅga)とは何ですか?

答8-10 西洋の学者は、有分を潜在意識と言う風に翻訳していますが、実際、それは潜在意識ではありません。《アビダンマ》によると、我々はそれを有分「識」と呼びますが、それはあくまで意識なのであって、潜在意識ではありません。多くの修行者が、有分に落ちた時、彼らは何も知らない、知らない状態になったと言いますが、有分識は、現在の対象を認知しないからです。それは前世の臨終の時の対象を認知します。その対象は、業、または業相、または趣相です。しかし、通常は、修行者が縁起を修行する時初めて、この状況を理解する事ができるようになります。

《アビダンマ》によりますと、簡単に言うと、二種類の心があります:一つは心路過程で、もう一つは、離心路過程です。有分識(有分心)は、離心路過程の中でも、最も需要な心です。

いわゆる心路過程とは、たとえば:あなたが何かの色(物質)を見ている時、眼門心路過程は即刻、その作用を生起させます;あなたが何か音を聞いた時、耳門心路過程は即刻、その作用を生起させます;あなたが何か匂いを嗅ぐのは、鼻紋心路過程の作用です;あなたが何かおいしいものを味わうのは、舌門心路過程の作用です;あなたが何かに触った時、身門心路過程が作用します。あなたが考え事をするか、修行をする時、意門心路過程が作用します。全部で六門心路過程があります;眼門心路過程、耳門心路過程、鼻門心路過程、舌門心路過程、身門心路過程、意門心路過程です。

この六門以外に、三種類の心が、離心路過程(vīthimutta-citta)と呼ばれます。すなわち;結生心(paṭisandhi-citta)、有分心(bhavaṅga-citta)と死亡心(cuti-citta)です。

人生の一期の生命の中の、最初の、一個目の心は、実際は、有分心の一種です。しかし、我々は別に名前をつけて、結生心と呼んでいます。一生の内の最後の有分心は、死亡心と呼んでいます。結生心と死亡心の間で、いかなる心路過程も生じていない時はいつも、有分心が生じています;有分心は「生命相続流」(life continuum)とも翻訳できます。

もし、これ以上はっきり理解したいのであれば、実際に修行して、それらを体験して下さい。

#090-150825

問8-11 涅槃を証悟するためには、観禅(vipassanā)の修行が欠かせません。なぜ、ある種の人々は、止禅(samatha)の修行中に、止禅の境地を涅槃だと誤解するのでしょうか?

答8-11 彼らは常識に欠けていて、観禅(vipassanā)とは何かを、徹底的に理解しようとしないからです。彼らは観禅(vipassanā)を、心身の現象を一つづつ観察する事だ、と思っているのです。彼らは究竟名法(parmattha-nāma)、究竟色法(parmattha-rūpa)を理解しないのです。通常、彼らは≪アビダンマ≫の知識を欠いており、七清浄と16観智を未だ、本当には理解していないのです。これが問題の所在です。

#091-150825

問8-12その他の業処を修行して、いまだ第四禅に到達しない前、修行者は直接仏随念(Buddhānussati-bhāvanā)を修行する事ができますか?

答8-12 できるかも知れません。例を上げると、心の中で、注意力を集中して、以下の、仏陀功徳を讃えるパーリ語文「Itipi so bhabavā arahaṁ sammāsambuddho vijjācaraṇa‐sampanno sugato lokavidū anuttaro purisadammasārathi satthā devamanussānaṁ buddho bhagavāti.」を、憶念してみてください。あなたは、あなたの心を専注させる事ができましたか?通常、心はあちらこちらに漂ってしまいます。というのも、我々は過去に仏陀を見たことがないので、ただ想像に頼って、仏陀功徳を思惟しているからです。

たとえば:我々は今、呼吸をしています。また、はっきりと、呼吸を感じる事ができます;しかし、我々は、完全に呼吸に専注できますか?呼吸は、今現在、存在している対象であって、想像している訳ではありません。ある種の初心者について言えば、今現在に存在している対象であっても、専注する事ができないのですから、想像による対象(仏陀功徳)に専注するのは、とても無理な話なのです。

我々は仏陀に会った事がない。ただ、書物からまたは先生から仏陀の戒徳が非常に清浄であった事を知ることができるだけです。そのようなわけですから、仏陀の清浄戒徳を対象に、その憶念を専注して下さい。次に、仏陀の禅定は非常に純粋でした。仏陀の純粋な禅定に専注して下さい。あなたは、仏陀の純粋な禅定に専注する事ができますか?実際は、とても難しいのです。もし、他の禅定の助けがなければ、仏陀功徳を憶念するのは、本当に難しいのです。というのも、我々はただ想像によるしかないからです。

同様に、仏陀の智慧も清浄です。仏陀の智慧とは何でしょうか?我々はただ想像するだけで、顔を合わせる事はできません;ゆえに、我々は、仏陀の智慧の清浄を、ただ、想像によって憶念するしかありません。あなたは仏陀の清浄なる智慧に専注できますか?実際、これも難しいのです。

こういう事から、もし他の禅定の助けがなければ、仏随念の修行を成功させるのは難しいのです。しかし、あなたは自分の希望に従って、チャレンジするには、全く問題はありません;ただ、近行定に到達するのは、非常に難しいです。故に、我々は通常、その他のジャーナ業処(jhāna-kammaṭṭhāna)を基礎にして、仏随念の指導をしています。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。