Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~25>パオ・メソッドは誰のもの?

(↓ 8月25日公開<パオセヤドー問答集>より引用)

問8-11 涅槃を証悟するためには、観禅(vipassanā)の修行が欠かせません。なぜ、ある種の人々は、止禅(samatha)の修行中に、止禅の境地を涅槃だと誤解するのでしょうか? 答8-11 彼らは常識に欠けていて、観禅(vipassanā)とは何かを、徹底的に理解しようとしないからです。彼らは観禅(vipassanā)を、心身の現象を一つづつ観察する事だ、と思っているのです・・・(以下略)

インターネット上で、<パオメソッドは、出家の為のもので、在家なら、手っ取り早く観禅(vipassanā)を始められる、別の瞑想方法がよい>という意見を散見します。

しかし、瞑想の対象に専注できる集中力(定)を育成しなければ、仏教徒としての最終目標である、智慧の段階には進めません(そんなに簡単に無常・苦・無我の、三法印の智慧が生まれるならば、今頃、この世は、阿羅漢・仏陀だらけです)。

在家の人は、仕事や家庭が忙しいのも事実、観禅(vipassanā)はしばらくは無理、という自覚の下、まずは妄想を減らし、サマタをやって心清浄までいく、というのも一つの方法です。

4年ほど前、私が台湾のパオ分院で修行した時、先月出家したばかりという うら若い sayalay が、32分身の、身体内部を観察する修行にチャレンジしていました。

月まで在家だった若者が、あっというまにジャーナに到達し、智慧の光でもって32分身の観察をしている・・・これも事実です。

進歩が速いか遅いかは・・・在家か出家かの違いよりも、前世の波羅蜜と今世の努力、事は非常に単純で、種も仕掛けもないのです(勿論、テーラワーダの寺院で長期リトリートすれば、食住の心配がなく、ひたすら瞑想に打ち込めて、その分有利ですが、出家だから有利、という事ではないです。黄衣で悟るわけじゃない)。

戒・定・慧、止観の修行は一生かけて実践するもので、速さを競うものでは、ないのです。

観禅(vipassanā)という言葉が独り歩きしている現在、観禅(vipassanā)が、一時の流行に終わる事のないようにと、願っています。(しかし、上記<彼らには常識が欠けていて・・・>というのは、セヤド-が緬甸(ミャンマー)人だから言える事で・・・厳しいなぁ^^;)