Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~26>20万円

先日、インターネットを見ていたら「老夫婦二人、月20万円の年金で暮らせるか?」という記事がありました。クリックして内容を読もうとしたのですが、私はこの手の話が苦手で、途中で読むのをやめてしまいました(結論だけ言うと、20万円では暮らせない、のだそうです)。

私が若い頃、そう、高校卒業の前後の頃でしょうか。就職して<何かの人>になるのが、本当に嫌でした。父には「女の子は大学に行く必要はない」と言われていましたので、取り敢えず就職し、お金を貯めてから自力で進学する事を考えていたのですが・・・、とにかく就職して何かになる、というのが吐き気がするくらい嫌でした。

私は、自分の人格を、可能性を、何かの職業で切り取られるのが嫌だったのですね。一言で言えば、全人格を生きたい、と思っていたわけです。

ですから、老後、夫婦二人で暮らすには、月20万円では足りないので、若い時から貯蓄をとか、生活に工夫を・・・と言われると、頭がクラクラします。あなたは、あなた自身の実存を生きようとしないのか?と思って、この手の話に、批判的になってしまうのです。

勿論、こういう下世話な話が 100% 無意味だ、などと極端な事をいうつもりはありません。人は、一日 3 度食事しなければなりませんし、都会に住んでいたら、衣食住は全部、お金で手に入れるしかないのですから、お金のマネージメントも必要でしょう。

でも、その前に、人としてどうしても取り組まなければならない事がある、と私は思うのです。人が生きる事にどのような意味、意義があるのか?という実存的な問題に心を寄せる事です。

新聞も雑誌も、インターネットも、お金が無いと生きていけないよ、という話(脅しの一種)ばかりでなくて、生きる事の本質に関する話も、是非、載せてもらいたいものだ、と思います。

追補:道元禅師は弟子に「米蔵の米がもう一日分しかありません」と言われて、「明日食べるものがなければ、黙って座っていなさい。座っていれば、そのまま死んでもいいし、座っていさえすれば、案外、死なないものだ」と言いました。緬甸(ミャンマー)のパオ森林寺院にいた時、一年に二度、900人の比丘やサヤレーが一列に並んで、粛々と村々を回り、米を貰い歩きました(道々には、お茶・ジュースの接待をする場所もあり、お手洗いを貸す家も決めてあって、壮観でした)。セヤドーはその日、倉庫に山と積まれたお米を見て「さぁ、修行に打ち込みなさい」と言ったものです。