パオ・セヤドー問答集~#123~127>問答(十)問10-1~10-5。5篇。
☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。
#123-150902
問10-1 ある修行者はすでに四禅八定を証して、観禅(vipassanā)まで修行している場合があります。しかし、彼らの日常的な行為又は徳行は、必ずしも良いとは言い難いです(戒律を守っていません)。多くの人は、この事が原因で、修行の方法に対して疑問が生じています。一人の、上述の境地を証した修行者は、いまだ証していない修行者より、身・口・意において、自己の清浄を守らなければならないのではありませんか?
一人の、四禅八定を証した人、または 12因縁を修行して、己の多くの過去生を知っている人、または涅槃を体験した修行者は、秘密を保持して、その事を気安く他人に話してはいけないのではないですか?
答10-1 パーリ経典によると、ジャーナ・道・果を証しようとする人は、先に戒清浄を保持しなければなりません;持戒が清浄でない人は、ある程度の定力を育成する事はできますが、いかなるジャーナ・道・果も証悟する事はできません。
ここで、私は皆様に一つの事をはっきりと述べたいと思います:私はこれまで如何なる修行者に対しても、ジャーナ・道又は果を証悟したなどと言って、印可を与え、認めた事はありません。私は確かにパーリ聖典の教法に基づいて修行者の初禅・第二禅等などを指導してきましたが、私は、インタビューの場での、彼らの報告に基づいて、指導しています。それは、私が彼らの修行の成果に対して、印可を与えた事にはなりません。彼らの成果の報告は、本当である時もあれば、嘘である場合もあります。というのも、一部の修行者は非常に誠実ですが、一部の修行者は不誠実だからです。
上述の成果を得た人が、身・口・意の方面で、いまだ成果を得ていない人より、絶対に清浄でありえるか、という問題は、とても難しいです。というのも、いまだ上述の成果を得ていない人でも、徳行の上では、非常に清浄でありえるからです。
大龍大長老(Mahānãga Mahãthera)が、非常に明確な例です:彼は法施阿羅漢(Dhammadinna arahant)の先生で、止観の修行を 60年以上も実践していましたが、しかし、彼は未だに凡夫(puthujjana)でした。彼は凡夫でしたが、しかし、強くて力のある止観の修行によって、60年の間、彼には如何なる煩悩が起こる事はなく、しかも、彼は戒も清浄でしたから、彼は自分で自分を、阿羅漢果を得たのだと思っていました。
ある日、彼の弟子である法施阿羅漢が自分の部屋にいながら、心でこう考えました:「ウッカヴァリカ(Uccavalika)に住んでいる、我々の先生である大龍大長老は、最も究竟の沙門であるだろうか?」と。そのように観察してみると、彼は、彼の先生がいまだただの凡夫で、もしこのまま先生に注意を促さないでいたならば、先生は臨終の時も、凡夫のままである事を、知りました。その為、彼は、神通力で先生の所へ飛んで行き、先生に礼拝し、かつ弟子の義務を果たした後、先生の傍に座りました。大龍大長老は聞きました「法施、なぜ突然、私の所へやってきたのか?」法施阿羅漢は答えます「私は尊者に教えを乞いに来ました」大長老「どうぞお尋ねなさい。私の知っている事なら、すべて答えます」そして、彼は阿羅漢しか答える事の出来ない質問をし、大長老は、一つ一つ、躊躇する事無く、しっかりと答えました。
彼は先生を称賛して:「尊者、あなたの智慧は鋭敏です。あなたはいつ、このような境地に到達したのですか?」先生「60 年前」。彼はまた尋ねます「尊者、あなたは禅定を修行した事がありますか?」先生「禅定は簡単」法施「尊者、では、一頭の大象を出して下さい」大長老は、一頭の大きな白象を出しました。法施「尊者、今、この大白象に、尻尾を立てて、耳を外に向けて広げさせ、長い鼻を口に入れて、大きな、恐ろしい声で吼えながら、あなたに向かって来るようにして下さい」大長老は言われるままにしましたが、大きな白象が自分に向かって走って来るという、恐ろしい光景を見て、大長老は飛び上がり、逃げようとしました。この時、煩悩を断じ尽くした法施阿羅漢は、先生の袈裟を掴んで言いました:「尊者、煩悩を断じ尽くした人が、いまだ怯懦しますか?」と。
この時、彼の先生は、自分がいまだ凡夫である事を理解しました。そして、彼は謙虚に法施阿羅漢に助けを求めました。法施阿羅漢は、「尊者、心配しないで下さい。私はあなたを助けに来たのですから」こうして、彼は先生の為に一種の業処を詳しく説明し、大長老はこの業処に納得した後、行禅用の専用路へ行こうとして、三歩歩いたところで、阿羅漢果を証悟したのでした。
《中部 Majjhima Nikãya》の註釈の中で、一つの物語が語られています:ある人が、年をとってから出家して比丘になりました。彼の戒師は、すでに阿羅漢果を証悟した、年若い青年比丘でした。彼は戒師と一緒に暮らしながら、戒師が阿羅漢である事を知りませんでした。ある日、彼は、村へ托鉢に行く途中、戒師に聞きました:「尊者、阿羅漢とは、どういう風なものですか?」と。戒師:「とても分かりにくいのです。ある人が年取って出家し、阿羅漢と一緒に暮らしているのですが、一緒に暮らしている人が阿羅漢だとは、知らないでいます」。戒師はそれとなく暗示しましたが、彼は彼の年若い戒師が阿羅漢である事に気が付く事はできませんでした。このように、誰が阿羅漢であるか、判別する事は容易ではありません。
一人の、真の聖者は、少欲、知足で謙虚であり、自分の証悟した内容を漏らす事は絶対にありません。もし、聖者が比丘又は比丘尼であった場合、仏陀の制定した戒・律により、彼(又は彼女)は、具足戒を得ていない人に、自己の証悟について語ってはいけない事になっています。具足戒を受けていない人というのは、サマネーラ、サマネーリーと在家居士です。また、大龍大長老の逸話から、誰かの証悟を確定するのは、非常に困難な事が分かります。こうした事から、自分の修行の成果を他人に教えない方が良いのです。もう一つ考慮しなければならないのは、ある人はあなたを信用しますが、ある人は信用しない、という事です。もし、あなたが真実、道果を証悟しているならば、あなたを信用しない人達は、重大な悪業を作った事になり、彼らに障害をもたらす事になります。この事から、聖道を証悟したという情報は、何らかの人々にとって、仏法への信頼の心を起こす事が出来るとしても、自分の修行の成果は、一つも、人に話さない方がよいのです。
#124-150902
問10-2 もし修行者が誠実でなく、修行の経験について、実際の状況を報告しない時、そのような修行者には、何か損失がもたらされますか?
答10-2 もし嘘をつき、出鱈目を言っているのならば、彼の戒行はすでに清浄ではありません。故に、彼は、いかなるジャーナ・道・果も証悟する事はできませんし、修行上の、目覚ましい進歩も望めません。もし、彼が明確に自覚していながら、ジャーナ・道・果を証悟していると詐称しているならば、これは非常に重い戒を犯した事になります。もし、この悪業が臨終の時に熟したならば、彼は地獄に落ちるでしょう。
仏教徒であるならば、我々は、自分の目標がどこにあるのかを、明確に知っていなければなりません。我々の目標は、生死輪廻から解脱する事であり、これは我々が得られる最大の利益です。ただ目標に到達した後にだけ、我々は、その他の人々に対して、自分が歩いてきた大道を導き、彼らに最大の利益を与える事が出来ます。故に、我々が自分を愛し、他人を愛するのであれば、我々は誠実でなければなりません。一人の、己自身を地獄に落とそうとしている人を、自分自身を愛している人だと言えるでしょうか?当然、違いますね。
然しながら、彼が前非を悔い改めて、誠実に、修行に精進するならば、彼もまた、ジャーナ・道・果を証悟する事はできます。
#125-150902
問10-3 仏果を証悟できない人はいますか?
答10-3 南伝仏教によると、いくつかの種類の人は、仏果を証悟する事ができません。一番目は仏陀です。仏陀はすでに仏果を証悟している為に、再び仏果を証悟する事はできません。すでに、仏陀から授記を受けていて、未来において辟支仏(paccekabuddha)、上級弟子と大弟子になる事が約束されている人は、仏果を証悟する事はできません。というのも、まさに仏陀が授記を与えたとおりに、それぞれが、辟支菩提、上級弟子菩提と大弟子菩提を証悟するからです。証悟した後には、二度と来世はありませんし、名色でもって十波羅蜜を実践する事もありません。次に、すでに何らか一種の道・果を証悟した人もまた、仏果を証悟する事はできません――どんなに低い道果――須陀洹の人であっても、です。須陀洹は最も多くて7回生死を繰り返せば、一切の煩悩を滅尽し、最後の生においては、臨終の時に般涅槃します。彼には、少なくとも四阿僧祇劫と十万大劫を使って十波羅蜜を蓄積する時間はありません。
普通弟子については、すでに仏陀から授記を受けているならば、彼らもまた、仏果を証悟する事はできません。というのも、彼らは必ず、仏陀の授記した通りに、普通弟子になるからです。しかしながら、いまだ仏陀から授記を受けていないならば、彼らは、菩薩道を修し、十波羅蜜を実践し、いつの日か、仏陀から菩薩になるという授記を得る事ができるかもしれません。もし、あなたがそう願うならば、あなたはチャレンジしてみるといいですが、成功する確率は相当に小さいです。
#126-150902
問10-4 どのようにして見、聞、覚、知を透視して、解脱に到達しますか?
答10-4 もしあなたが、見、聞、覚、知を実践している時に、究竟名色法を照見でき、かつ、それらの無常・苦・無我を観ずる事ができたならば、あなたは解脱に到達する事ができます。
#127-150902
問10-5 《中阿含経 Majjhima Agama》の中で、アーナンダ尊者は、身体を横たえようとした時に、阿羅漢果を証悟したとあります。その時、彼は、どのように名色法を観察したのでしょうか?
答10-5 あなたは、アーナンダ尊者が、出家して比丘になった後、すぐに内・外・過去・未来・現在・劣っている・優れている・粗い・細かい・遠い・近い、の五蘊を分析できた事、縁起を修行し、かつ、それらの五蘊の因を照見でき、五蘊とそれらの因が無常・苦・無我であることを観じる事が出来た事を、覚えておいてください。そういう事が出来た上で、彼は、彼の最初の雨安居の時に、プンナ尊者(Mantãnīputta Puṇṇa )の説法を聞いて、須陀洹果を証悟し、同時に四無碍解智を得ました。四無碍解智を証悟しようという人は、過去世において、観禅(vipassanā)を修行して、行捨智の段階まで到達しておかねばなりません。
須陀洹道果を証悟した後、彼は引き続き、44年もの長い間、観禅(vipassanā)の修行をしました。彼が将に阿羅漢果を証悟しようとしていたその日の夜、彼は徹夜で行禅をし、特に、身体の42の部分に関する色法を無常・苦・無我と観ずる修行をしました。しかしながら、過度の精進の為、彼の定力は弱くなり、故に、彼は横になって、精進根と定根のバランスを取ろうとしました。彼が横になろうとした過程で、五根がバランスされて、身体が床に接触する前に、彼は阿羅漢果を証悟しました。あなたは、これは決して頓悟ではない事を理解しなければなりません。というのも、彼は初果須陀洹を証悟してから、44年の時間をかけて、色々な方法、たとえば、名色法、五蘊法、十二因縁法などでもって、徹底的に名色を無常・苦・無我であると観じていたからです。
もし、修行者が、内部と外部の色名を無常・苦・無我であると観じ、かつ観智が熟したならば、もうすでに、道果を証悟する間際にいるわけであり、ただ、自分の、観じるのが好きな法と相を観じればよいだけです。たとえば、ただ色法を無常・苦・無我であると観じるだけで、十分に道果を証悟する事ができます。しかしながら、未だ徹底的に名色を無常・苦・無我として観じる事ができないのであれば、ただ一種類の法の、無常・苦・無我を観察する事だけによって、何らかの道果を証悟しようとしても、それはできません。(完)
(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay 。
<#123> は非常に重要な法話と思われます。精読をお勧めします)
初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。