Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~26>宝の持ち腐れ

昨日、「パオ・セヤドー問答集」の翻訳をしていて、とても参考になる文章に出会った。

我々は、お腹一杯食べすぎると消化不良になる。そして、それを、前者が因、後者が果であると、そう言いがちだけれど、仏陀因果律は、そんな誰にでも分かる、誰にでも言えるようなアホな事を言っているのではない、仏陀は三世の因果という見難く、理解しがたい理法を説いたのだ、とパオ・セヤドーは、言う。

私はこの部分の翻訳をしながら、以前あった、知人女性とのちょっとした意見の行き違いを思い出した。

その女性が夫に浮気された時、夫を許すためか、又は自分を納得させたいがためにか、「仏陀はこの世はすべて無常だと教えているから、私は夫の心変わりを許します」というのである。

私はそうは思わなかった。

仏陀は、家族はお互いを思いやって仲良く暮らすように言っているし、己の心をコントロールせよとも言っている。

我々は凡夫であるから、毎日顔を合わせていくうちに、夫または妻への心変わりが生じる事は避けられないとしても、それは、己の心をコントロールできない上に、慈悲の心をも持ち合わせていない愚か者の行為であり、「無常だから仕方ない」と言ってしまっては、仏陀の教えた無常の本当の意味が分からなくなる、と私は思ったのである。

そう、無常とは、人の心変わりや、咲いた花が散ったりする事をいうのでは、ない。

仏陀の無常、それは色法と名法の無常、それらの刹那生・滅を言っているのである。

私は子供の時から仏法が好きではあったけれど、師無く、独学と乱読ばかりで、経典をきちんと研究した事が無いので、仏法に対し間違った意見を聞いても、即座に根拠を示して反論するなどという芸当はできないけれど、私のあの時の、知人女性の発言への違和感、あの直感は当たっていたのだな、と翻訳しながら、思った次第(この世で、仏法の理法が誤解されるほど、もったいないことはない。宝の持ち腐れ)。