☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。
#145-150904
問11-10 世俗諦に通じていない為、それが真実諦を修行し学ぶときの障礙になる事があります。これらの障礙は、どのように解決すればよいでしょうか?
答11-10 仏陀は:「定力のある比丘は、諸法を如実知見することができる」と言っています。故に、究竟の真理を照見したいならば、あなたは善知識の指導の下に修行して、定力を育成する必要があります。
ここで私は、シューリーハンドク尊者(Venerable Cūḷapanthaka)の物語をしましょう。出家した後、シューリーハンドク尊者は、彼の兄であるマハーパンダカ阿羅漢(arahant Mahãpanthaka)の指導の下で、修行していました。しかしながら、雨安居の全部の時間をかけても、彼はただ四つの句でできた偈さえも覚える事ができませんでした。彼がこのように物覚えの悪い馬鹿である原因は、過去世の中、カッサバ仏(Kassapa Buddha)の時代、シューリーハンドクは、博学で、かつ仏法を教える事のできる比丘でした。ある時、彼は、彼について学んでいた一人の比丘を愚鈍であると、嘲笑しました。この比丘は、先生の嘲笑を受けて、恥ずかしく思い、学び続ける自信をなくしました。この悪業によって、シューリーハンドクは幾度の世においても、馬鹿な人間として生まれました。そして、自己の最後の生において、シューリーハンドクとして生まれましたが、出家するやいなや、彼は突然物覚えが悪くなってしまいました。こうして、意外にも、彼の身に、下の一句を覚えると、上の一句を忘れるという状況が生まれました。
彼の兄、マハーパンダカは、彼がいかなる道果をも証悟できないと考えて、還俗するように言いました。この、人の気持ちをなえさせる兄の命令を聞いて、シューリーハンドクは、悲しくなって、泣き始めました。
その時、仏陀は、名医ジヴァカ(Jivaka)が供養したマンゴー園僧院にいました。仏陀は、シューリーハンドクの困惑を見、また、彼が仏陀の指導の下で、解脱を証悟するであろうと知りました。それで仏陀はシューリーハンドクの傍に行き、尋ねました「我が子、シューリーハンドク。君は何を泣いているのですか?」。シューリーハンドクは、「世尊、私の兄が、私を追い出そうとしているのです」。「我が子、シューリーハンドク、君の兄は、衆生の意向と機根を、明らかにする能力を持っている訳ではない。君には仏陀の指導が必要だ」これらの、シューリーハンドクを励ます言葉を言った後、仏陀は神通力で、一枚の清潔な布を出してきて、シューリーハンドクに渡してこう言いました「我が子、シューリーハンドク。手でこの布を持って、『rajo haraṇaṁ、rajo haraṇaṁ――この布は汚れやすい、この布は汚れやすい』と唱えなさい。君はこのように修行しなさい」と。
シューリーハンドクは座って、仏陀から貰った布を手で触りながら、うたいました「この布は汚れやすい、この布は汚れやすい」。このようにして、彼が何度かこすっていると、その布は汚れ始めました。彼はこすり続け、その布はどんどん汚れて、雑巾のようになりました。彼の智慧が熟す時が来ました。消失と壊滅の法則が彼の心の中に起こり、彼は思惟しました:「この布は、もともとは清潔で綺麗だった。ただ、私の身体と接触する事によって、真っ黒になってしまった。私の心もまた、この布と同じで、干渉を受ける前なら、私の心はもともと清らかなのだ。しかし、貪・瞋恚・痴などの不善心所と接触する事によって、私の心は汚れてしまった」。このように自分自身を思惟した後、彼は更に定力を育成し、四種類の色界禅を証しました。これらのジャーナを基礎にして、彼は観禅(vipassanā)の修行に取り組み、その後に阿羅漢果を証悟し、同時に四無碍解智と六神通を得ました。
シューリーハンドク尊者の物語から、我々は、物覚えの悪い馬鹿な人間は、優れている何らかの成果を成就する事ができない、と思ってはいけない、という事が分かります。
#146-150904
問11-11 仏陀はシューリーハンドクに「掃除、掃除」と唱えるように指導し、彼は阿羅漢果を証悟しました。これはどういう事でしょうか?「掃除」が彼の業処ですか?「掃除」と唱えるだけで、四禅八定の修行に成功したり、又、初果から四果までの証悟に、成功する事ができるのでしょうか?
答11-11 南伝経典によると、シューリーハンドク尊者は、「掃除」と唱えたのではなくて、先ほど私が説明したように「汚れやすい(原文=容易遭到汚染)」と唱えたのです。
過去のある生において、シューリーハンドクは国王に生まれました。ある日、市内を巡視している時、彼の額から汗が吹き出しました。その時彼は、綺麗な布で汗を拭き、その布を汚したのです。国王は一人ごちて:「この不浄なる身体が原因で、この綺麗な布を汚してしまった。この布は本来あった清浄なる性質を失ってしまった。有為法とは無常なり!」このように、彼は無常の印象(anicca-sañña 無常想)を得ました。故に、シューリーハンドク尊者についていえば「汚れやすい」という法門は、彼が阿羅漢果を証悟するための、強力な助縁なのです。仏陀が彼の過去世における善行を見た事、また、その善行に適合する対象に専注する修行に取り組む事を勧める為、仏陀は一枚の綺麗な布を渡したのでした。
シューリーハンドク尊者は、すでに十万劫の長きに亘って波羅蜜を積んでいました:彼の多くの過去生において、いつも三蔵の典籍の研究をし、観禅(vipassanā)の修行をして行捨智の段階まで到達していました。これは、四無碍解智及び六神通を証悟しようとする阿羅漢にとっては、必ず具備していかねばならない前提条件です。彼は、彼の最後の一生の中で、布が汚れていくのを見て、即刻、有為法の無常なる本質を領悟、了解する事ができ、かつ、有為法の苦と無我の本質も領悟、了解する事ができました。彼は、これによって阿羅漢果を証したのです。
#147-150904
問11-12 このように言う人がいます:禅の修行をする前に、福徳を積んでおかねばならない。そうでなければ、多くの困難に会うのだ、と。これは真実でしょうか?
答11-12 ここで言っている「福徳」が、過去生の中で行われた福徳であれば、この言葉は真実です。二つの種があります:智慧(vijja明)の種と善行(carana行)の種です。善行の種とは、布施、持戒、禅定の修行など等で、過去世において積んだ善行の種は、今生において、良い父母に恵まれる、よい友達、よい指導者に会う、そして、仏陀の教えを聞くことができる、です。智慧の種は、四界分別観、色業処、名業処、縁起及び観禅(vipassanā)の修行を指します。過去世において積み重ねた智慧の種は、今生においてあなたが仏法を明らかにできるようになりますが、特に、四聖諦が明らかになります。
もし、人が善行の種を具備していながら、しかし、智慧の種を欠いている時、彼は仏陀の教法に出会う事が出来ても、仏法を徹底的に理解する事はできません。それは、足はあるけれど、目が悪い人のようです。たとえば、仏陀の時代に、真諦(saccaka)という名の弁論家がいました。仏陀は彼の為に、二部の長編の経を述べましたが、彼は如何なる道果も証悟する事ができませんでした。彼は心では、仏陀がいう所の五蘊は無常で無我であるという事は認めましたが、口頭では認めませんでした。仏陀は、彼がいかなる道果も証悟する事ができないことは分かっていましたが、しかし、やはり彼の為に二部の長い経を教えました。というのも、仏陀は、彼が智慧の種を獲得した後、まさに仏陀が般涅槃した後、約400年後にスリランカに生まれ、一人の、名を大黒護仏(Mahãkãḷabuddharakkhita)という、大長老になり、その時点で阿羅漢果を証悟する事を、予見したからです。もし、一人の人が智慧の種を具備しながら、善行の種を欠いているとしても、その人は、仏法にあえば、仏法を理解できます。しかし、このような人は、仏法に出会う事が非常に難しいのです。それはまるで、鋭い視力をもっていながら、両足のない人のようです。たとえば、アジャセ王(King Ajatasattu)は、もともとは、十分な善根を具備していて、仏陀の開示した《沙門果経 Sammaññaphala Sutta》を聞いたときに、須陀洹道果を証悟する事ができたのです。しかし、彼は道果を証悟する事ができませんでした。というのも、彼は自分の父母を殺害する前に、仏陀に出会う事ができなかったからです。このように、善行の種が欠けている為、彼は適切な時に仏陀に会う事ができませんでした。同様に、仏陀の時代の事ですが、ある時、仏陀は年老いた乞食の夫婦を見て、微笑しました。アーナンダ尊者は、仏陀がなぜ微笑したのか尋ねました。仏陀は:「あの乞食の夫婦は、夫の名を大財長者子(the son of Mahādhanasetthi)といい、もし、彼らが若いうちから仏法の修行をしていたならば、夫は阿羅漢果を証悟し、妻は阿那含道果を証悟していたでしょう。もし彼らが中年の時に仏法の修行をしたならば、夫は阿那含道果を証悟し、妻は斯陀含道果を証悟していたでしょう。もし彼らが晩年の始めに修行していたならば、夫は斯陀含道果を証悟し、妻は須陀洹道果を証悟したでしょう。しかし、彼らはずっと乞食に身を落としたまま流浪し、今では、年を取りすぎて、また体も弱くなり、仏法の修行はできないのです。彼らは、仏法の修行をする機会を失い、今となっては、如何なる道果も証悟する事ができないのです。故に、善行と智慧を同時に具備するのが最も重要なのです。このようであってこそ、仏陀の教法に出会う事ができ、また、仏法を明らかにする事ができるのです。
今生で作った福徳については、先ほどの講義で説明した通り、今生で阿羅漢を証悟する事のできる人にとっては、今生でなす福徳は重要ではありません。彼らは戒・定・慧の三学に専注・修行し、阿羅漢果を証悟する為に努力しなければなりません。今生で成した福徳は、彼らとっては、来世の利益にはなりません。というのも、彼らはもう二度と生死輪廻をしないからです。しかしながら、未だ生死輪廻をしなければならない人にとっては、今生でなす福徳は、非常に重要ではあります。
#148-150904
問11-13 ある老比丘尼が、よく信者にこう言います「あなたが以前堕胎した嬰児の霊魂があなたについている、あなたの累劫の仇、債権者があなたについている、それらがあなたの障礙になっていて、故に、あなたの事業は失敗し、病気になり、家庭は不和で、喧嘩が絶えず、あなたは癌になるでしょう、と。禅師、堕胎された嬰児や、累劫の仇や債権者は、24時間自分についていて、報復しようとするものなのでしょうか?
答11-13 仏陀は言いました:「子宮の中で死んだ子供は、生まれてくる子供より安全です。一人の嬰児が子宮の中で死んだならば、彼の臨終の、その時に熟した業によって、彼は五道の内の一つに生まれ変わります。もし、地獄道、畜生道、人道または天界に生まれたならば、自分の過去の母親と一緒にいる事はできません。もし彼が餓鬼道に生まれた場合、絶対的な可能性としては、彼は非常に大きな痛苦に見舞われるので、過去の母親と一緒にいる事はできません。ただ、ある種の鬼(=亡霊)だけが、母親と一緒にいる、という可能性はあります。ただ、どの嬰児がこのような状況であるか、という判断は非常に難しいのです。それにもし母親と一緒であったとしても、母親にそれほどひどい事はしないでしょう。たまに脅してみるか、または不快な匂いをさせるだけです。ですから母親は、怖がる必要はありません。
母親が理解しなければならないのは:自分はすでに悪業を一つなしたという事です。というのも、堕胎は殺人だからです。もし、この悪業が彼女の臨終の時に熟したならば、彼女は四悪道の内の一つに落ちるでしょう。しかしながら、もうすでに過去となった事柄に対して、泣いてもどうにもなりません。もうすでにしてしまった事柄は、誰もその業を取り除く事はできません。彼女がしなければならないことは、二度とふたたびこのような悪業をなさない、という事です。もし彼女が、あらゆる悪業から遠ざかる事ができ、善業のみを実践するならば、それが一番いいでしょう。彼女は布施をし、五戒を守り、さらに止禅と観禅(vipassana)の修行が出来るならば、もっといいでしょう。もしこれらの善業の一つが、彼女の臨終の時に熟したならば、彼女は善道に生まれ変わります。もし、須陀洹道果を証悟する事ができたならば、彼女は永遠に悪道には生まれません。今生において、五種類の無間業の中のどれかを一種でもなした事がないのであれば、彼女は聖果を証悟する可能性も残されています。五間業とは:父親殺し、母親殺し、阿羅漢の殺害、生きている仏陀に血を流させる、和合のサンガを分裂させる、です。ともて明らかな例としては、アングリマーラ(Venerable Aṅgulimāla)尊者です。彼は在家の時に多くの人々を殺しましたが、出家して比丘になった後、阿羅漢果を証悟する事ができました。このことから、以前、堕胎した事のある母親は、この事で二度とふたたび憂慮しないようにして下さい。というのも、そのようにしても、日常の生活に何ら益はないからです。反対に、彼女は生きている間の時間を使って、善業をなすよう努力するべきです。(完)
(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)
初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。