Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#149~#155>問答(12)問12-1~問12-7。7篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#149-150905

問12-1 ある一人の老比丘尼がよく信徒にこう言います「あなたが癌になったのは、多くの生、多くの劫における、仇・債権者があなたに付いているから。あなたは30万台湾ドルを持ってきなさい。私が消災超度、梁皇宝懺してあげます。そうすれば、あなたの癌は自然に治るでしょう。禅師、南伝の仏典では、このような、比丘・比丘尼が信徒からお金を貰って、信者の癌や死病を治すというようなことがありますか?

答12-1 南伝の仏典には、この種の記載はありません。

 #150-150905

問12-2 ある一人の老比丘尼がよく信者にこう言います:あなた方の家のドアの方位が悪くて、向かいの家の壁に(悪気が)ぶつかっている、殺気がある、あなた方は早く引っ越しした方がいい、でないと厄運が来る、子供たちが病気になる、商売は失敗する、と。禅師、南伝の経や律に、比丘や比丘尼に、信徒の方位、風水を見なさいという記載はありますか?

答12-2 南伝の仏典には、この種の記載はありません。

#151-150905

問12-3 ある一人の老比丘尼が信徒の家に行き、客間に祖先の遺影があるのを見て、信徒に言いました:あなたの家の先祖の遺影の目が、ぐるぐる回っている。客間には先祖の遺影を飾ってはいけない。先祖は遺影に付いていて、次の生に生まれ変わろうとしない。

禅師、亡くなった先祖は、本当に遺影に付いているものですか?鬼道の衆生(=餓鬼・亡霊等)は、一体どこに住んでいるのですか?

鬼道の衆生は、必ず自分の子孫の家にいるものですか?

ある一人の老比丘尼は、よく信徒にこう言います:私がお墓の傍、お寺の納骨堂の傍を通ると、必ずなにがしかの鬼が私について家まで来て、私に救度してほしいといいます、と。

禅師、お墓や納骨堂には、鬼道の衆生がいるものでしょうか?どの衆生も死んだ後、遺灰、遺体に執着して、皆、鬼(=餓鬼・亡霊等。以下同様)になるものでしょうか?

答12-3 仏陀の教えでは、衆生は生死輪廻の中で流転しています。業果の法則に照らせば、いまだ阿羅漢果を証悟していないならば、臨終の時に熟す業によって、次にどこに生まれるかが、決まります。もし臨終の時に善業が熟せば、彼は善道に生まれます:すなわち、人道又は天界です。もし臨終の時に悪業が熟したならば、彼は地獄、餓鬼、畜生という、悪道の中の一つに生まれるでしょう。故に、どの衆生も死後、自分の遺骨又は遺体に執着して鬼になるという言い方は、仏陀の教えに反しています。実際、こういう言い方は、一種の宿命論邪見です。もし、この言い方が正しいのであれば、仏陀の教えた業果の法則は、間違いだという事になります。

上に述べた業果の法則について、我々ははっきりと知ることができます:すべての死者が、皆自分の子孫の家に付くわけではありません。どうしてか?もし彼が天界に生まれたら、その人は天界に住み、もし人道に生まれたら、来世の母親の子宮にいるか、またはその家にいます。もし彼が地獄道または畜生道に生まれたならば、同じ理屈になります。鬼道の衆生についていえば、彼らは自分の業に従って、世界のどこかの片隅に住んでいます。故に、鬼道に生まれたならば、自分の業に従って、彼はどこかの場所で苦を受けます。以前の家に居つづけるという状況はとても少ないです。

仏陀の時代、ある一人の女性が、自分の身体に非常に執着しました。彼女は死後、自分の遺体に住む鬼(=幽霊)になりました。ある一人の比丘が、お墓にいるこの遺体をみて、糞掃衣にする為に、遺体の布を持ち去りました。この鬼は、その執着心によって、自分の死体を立たせ、比丘について僧院まで来ました。比丘は僧院に来ると、自分の部屋に入り、ドアを締めました。一緒に入る事の出来なかった死体は、ドアの前で倒れてしまいました。このような、前世の所有物に住みたいが為に、遺体に住む鬼に生まれ変わるというのは、非常に珍しい例になります。

#152-150905

問12-4 ある一人の比丘尼が、自分では禅の修行者だといい、よく信徒に、座禅中に鬼(=亡霊・幽霊等。以下同様)が自分の所へやってくる、と言います。 

禅師、修行者はどのような境地まで修行したならば、鬼が来て済度してくれと頼みに来ますか?修行者は、天眼通を持って初めて、鬼道の衆生を見る事ができるのではないですか?

答12-4 鬼道にいるのは、非常に下等な種類の衆生で、我々は彼らに何らの手助けもできません。ちょうど、先ほどの質問にもあったように、ある種の鬼だけが、以前の縁者が彼らに供養した場合に、その功徳を受け取る事ができます。この種の鬼以外、その他の種類の鬼は、我々はどのようにも助けてあげる事はできません。仏陀でさえも、です。

修行者が慈心観または悲・喜・捨心観などを修行すると、その人は鬼道の衆生を大まかに見る事はできます。というのも、彼に鬼道の衆生が見えなければ、彼らに慈愛や憐憫や随喜、又は捨心を届ける事ができないからです。天眼通を有する人は、鬼道の衆生を詳細に見る事ができます。

#153-150905

問12-5 臨終の時、心がちょうど「有分心」に落ちていて、善念も悪念も起きていないとしたら、有分心によってどこかへ生まれ変わるという事はありますか?また、そこへ生まれる事に影響する要因はどのようなものですか?

答12-5 一人の衆生の、最後の心は、死亡心であり、死亡心とは、有分心の事です。そして、次の生まれ変わりを引き起こす業は、臨死速行心の業です。臨死速行心とは、一生の中で、最後に生起する一つの心路過程です。

仏陀、辟支仏(paccekabuddha)及び阿羅漢以外のその他の人々について言えば、臨終のその瞬間に、いかなる善業または悪業も熟す事はない、ということは考えられません。

#154-150905

問12-6 夢は、どの心識に属しますか?どうして、まさに横になって、もうすぐ入眠しそうな時に、夢に似た短い光景が出現するのですか?どうして夢が終わると、即刻目が覚めるのですか?「日中考え事をすると、夜にその夢を見る」と言われのは、本当ですか?それとも(夢は)過去世の事実ですか?または未来に実現する何かですか?夢の中で、止禅、観禅(vipassanā)を修行したり、入定する事はありますか?

答12-6 夢とは、多くの意門心路過程によって構成されています。我々は、夢の中で、止禅、観禅の修行をしたり、入定したりする事はできません。というのも、夢とは微弱な意門心路過程によって構成されているからです。

夢には四種類の原因があります:一番目は:日中考え事をすると、夜にその夢を見る。二番目は:身体の四大の不均衡によって生じる。三番目は:天神が夢に託す。四番目は:未来の予兆。前の二種類は、虚偽のものです。三番目の夢は、本当である可能性も、嘘である可能性もあります。四番目の夢は真実のものです。

#155-150905

問12-7 夜中に目が覚めると、朝かと思う事があります。外が明るくて昼間のようだからです。どうして、このような事が起こりますか?

答12-7 もし、修行者が入眠する前に禅の修行をしていて、かつ光明が現れていたならば、彼が目覚めた時、まだその光が残っている可能性があります。しかし、もしあなたの言っているその人が、禅の修行者でないのならば、彼がなぜ光を見る事ができるのか、説明するのは非常に難しいです。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。