Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#156~168>問答(11)問12-8~12-20。13篇。

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。(昨日13編を一気にupしようとして失敗しましたので、本日、コピー&ペーストを、小段落に分割して実行した所、なんとかOKのようです。全体の分量が多いので、文字の大きさは、標準タイプとします。あしからず)。

#156-150906

問12-8 南伝の比丘は、いまだ輪廻の中で流転する時に必要な福報(前世における積徳による果報=訳者)をどのようにして育成しますか?中国では「今生不了道、披毛載角還(今生で道を究めなければ、修行の為に受けた布施の恩を、来世、動物になって苦役をして返さなければならないの意=訳者)」という言葉があります。出家者は(供養、布施に頼って生活しているので=訳者)、福報を使い切るか、または足りないという理由で、来世では乞食になるという事はありませんか?また、凡夫と比丘は、どのようにして、来世において、再び人間界に生まれ、出家修行が出来ると確信する事ができますか?

答12-8 仏陀の教えによると、比丘には二種類の責任があります:

  1. 経典の研究。
  2. 阿羅漢果を証悟するまで、止観の修行を実践する。

 比丘が上記の内のどちらを選んでも、戒清浄を持する事は、絶対的に欠かせません。彼は、必ず、別解脱律儀戒、根律儀戒、活命遍浄戒と資具依止戒を遵守しなければなりません。これは、彼には徳行が必要である事を意味しています。彼は施主から供養を受け取った後、手にした物品を一緒に修行する比丘や、サンガ、仏陀に供養する事が出来ます。このように、彼の様な徳行ある比丘が、法に基づいて手にした品物を、徳行のある人に布施をすれば、彼の布施は、崇高で大きな果報をもたらします。ちょうど、インダカが、アヌルッダ阿羅漢(arahant Anuruddha)に布施した、あの一匙のご飯のように。

彼はまた、貰った花で仏陀を供養する事もできます。彼がお寺の雑事、たとえば、掃き掃除、サンガの建物の拭き掃除をする時、彼はまさに上質の福報を積んでいます。彼は上座の比丘を礼拝している時、やはり福報を積んでいます。このように、南伝の比丘は常に、上質の福報を積む機会に恵まれていて、彼の来世の生死輪廻における資糧とする事ができます。実際、彼は、どの在家者よりも、更に良質な福徳を積む機会に恵まれているのです。

もし彼が第二の項目を選択したのならば、止禅と観禅(vipassanā)の修行に専念しなければなりません。もし彼が縁起法(12因縁)を徹底的に修行する事ができるならば・・・最も理想的なのは、彼が行捨智まで修行できる事ですが、そうすれば、次の世では、彼はもはや、悪道に生まれる事はありません。これは、来世、彼が比丘になるチャンスがある、という事です。

もし彼が、止禅の修行をしてジャーナに到達し、かつそのジャーナを臨終まで維持する事ができたならば、彼は梵天界に生まれます。このように、彼が何らの道果も証悟していないとしても、依然として、彼の布施、持戒、ジャーナ、観智などの善業によって、未来の世には、人界、天界または梵天界に生まれる事ができます。これは、業果の法則によって生じる現象です。しかしながら、彼が未だ縁起の法を修しておらず、臨終の時に、悪業が熟したならば、彼はやはり悪道に生まれる事になるでしょう。

 #157-150906

問12-9 一人の、師の指導を受けていない修行者は、自分一人で経典に基づいて修行する事ができますか?また、経典に基づかず、独自で修行して、行捨智まで到達する事はできますか?修行者はどのようにすれば、自分が行捨智を証悟したという事が分かりますか?

答12-9 もしこの修行者が菩薩または辟支仏(paccekabuddha)であれば、彼は師がなくても自分で悟れます、特に彼が、正等正覚または辟支菩提を証悟しようとする最後の一生においては。その他の人については、もし彼が仏陀の教えに精通しているのであれば、経典に書いてある指導に従って、行捨智を証悟する事はできます。パーリ聖典に精通している人が、段階的に修行していくと、自分が行捨智に到達した事は(その時)分かります。

#158-150906

問12-10 すでに阿羅漢果を証悟した聖者は、他の、阿羅漢果を証悟した人を知る能力を有しますか?

答12-10 もし彼に他心通があれば、すなわち、他人の心念(心の内の思い)を知ることのできる神通を持っているならば、相手が阿羅漢であるかどうかの判断はできます。もし他心通を持たないならば、相手が阿羅漢であるかどうか、知る事はできません。

#159-150906

問12-11 ある時の座禅・瞑想の体験で、内心の思いが、極めて速く生滅流転しているのを察知する事ができました。しかし、その内容と、その善悪をはっきりとは知る事ができませんでした。これはどのような心法に属するのでしょうか?

答12-11 あなたご自身が、それらを善であるか悪であるかを知ることができないならば、私に分かるはずがありません。

このような智慧はいまだ浅薄なもので、あなたは少なくとも名業処を修行して、究竟の名法を判別できるようになる必要があります。その時、あなたは、心と心所を詳細に理解する事ができるでしょう。

#160-150906

問12-12 南伝の経論の中に、菩薩道について、難行道と易行道の区別について書かれたものはありますか?もしあるならば、その区別は何ですか?

答12-12 南伝の経典にはこのような事柄への記載はありません。しかしながら、南伝の経論の中に、三種類の菩薩について、書かれた部分があります:慧者菩薩、信者菩薩と精進者菩薩です。慧者菩薩は、四阿僧祇劫と十万大劫の時間をかけて、波羅蜜を円満成就します。信者菩薩は、八阿僧祇劫と十万大劫の時間をかけて波羅蜜を円満成就します。精進者菩薩は16阿僧祇劫と十万大劫の時間をかけて、波羅蜜を円満成就します。

#161-150906

問12-13 南伝の経論の中で、弥勒菩薩の所で聞法し修行する為、また、龍華三会において、弥勒仏から授記を受ける為、兜率天に生まれようという発願と修行について、書かれた部分はありますか?

答12-13 南伝の経論の中に、このような記載はありません。もし、あなたが未来の弥勒仏から授記を得たいのであれば、あなたは彼に出会った時、人として生まれ、また、男性であるべきで、授記を受ける八つの条件を具備していなければなりません。

#162-150906

問12-14 「人が死ぬとき、生きた亀が脱皮するようだ」と言う人がいます。それでは、死んであまり時間が経っていない時に、臓器を(移植の為)献ずるのは、菩薩道の行いになりますか?もし捨心が足りないのに、このような事をすれば、善趣に往生するのに影響を及ぼしませんか?生前、どのような心の準備が必要ですか?

答12-14 死んだ後で、臓器を献ずるのは、食べ残した食品を他人に布施するのと同じで、上質な布施ではなく、微弱な善業の一種です。菩薩は、通常、生きている時に、臓器を布施します。

仏陀の教えでは、死亡した後、すぐにどこかへ生まれ変わります。今生の最後の心(死亡心)と来世の一つ目の心(結生心)の間には、その他のなんらの心識も存在しません。今生の死亡心が滅した後、来世の結生心が即刻生起します。ここにおいて、私は、あなたに、縁起法を修行する事を通して、この事を自ら体験する事をお勧めします。今回のリトリートにおいても、何人かの修行者は、縁起法まで修行するに至りました。もしあなたが十分な精進をするならば、あなたもいつかは、生死の間にある真実の状況について、自分自身、見る事ができるでしょう。

#163-150906

問12-15 修行者の臨終の時、意外な事柄が起きない限り、傍にいる人は、彼が正念を維持できるように、どのように彼を支えるのが良いですか?

答12-15 傍にいる人は、彼の為にお経を読んだり、法を説いたりすることが出来ます。もし、臨終の人に、お経や説法が聞こえて、かつ、それらを理解する事が出来たならば、彼にとって支えになります。しかしながら、彼が昏迷して目覚めないならば、また、聞こえないならば、(この方法で)彼を支える事はできません。

実際は、自分が自分自身に頼るのが一番よいのです。もし彼が観禅(vipassanā)の修行をして、道果を証悟する事ができるならば、それが最も良いです。もし不可能であれば、臨終の時に観禅(vipassanā)を修行するのが、二番目に良いです。もしそれが出来ないならば、ジャーナに到達して、それを臨終の時まで維持できれば、それもいいです。その他の善業は、あまりよい保障になりません。布施や持戒が善道への生まれ変わりを可能にするとしても、しかしながら、臨終の時の不如理作意によって、悪業が善業を超えてしまう時があり、その事によって、悪道に生まれる、という事態が生じてしまうからです。

#164-150906

問12-16 四界分別観(原文は四大分別観)の修行から、安般念の修行に変更すると、呼吸を見るのが難しいという事はありますか?

答12-16 ある種の修行者は、困難に出会います:というのも、鼻と顔面の四大の特相が非常に明瞭になるため、彼らは呼吸に専注できなくなります。しかし、ある種の修行者には、この種の問題は起きず、一心に呼吸に専注する事ができます。

四界分別観の修行を成就した上で、色業処の修行をした人が、安般念の修行をするのは、非常に簡単です。観禅(vipassanā)の修行をした人も同じです。

#165-150906

問12-17 禅師の回答の中で、シューリーハンドクの物語に、「心は本来清浄であり、ただ貪・瞋・痴に接触したのが原因で、心は汚れてしまった・・・」とありました。しかし、「本来の心」があると言うならば、常見にならないのでしょうか?または私が禅師の説明を取り違ったでしょうか?禅師、心は本来清浄であるとは、どういう事か、説明をお願いします。

答12-17 「心は本来清浄である」という言葉の中の「心」とは、特別に有分心について言われます。註釈《法聚論 Dhammasaṅghanī》の《殊勝義註 Aṭṭhasãlinī》の中で説明されているように、有分心は清浄です。それは果報心で、貪・瞋・痴などの不善心とは相応しません。一切の果報心、善心及び唯作心は皆、清浄です。というのも、それらは貪・瞋・痴などの不善心所とは相応しないからです。

《アビダンマ》の復註である《根本復註 Mūlaṭīkã》では、すべての心は皆清浄であり、ただ心所だけに、清浄と不清浄の区別があるだけだと言っています。不善心所は不清浄で、その他の心所は清浄なのです。

とはいえ、南伝の教えでは、いわゆる「本来の心」という言い方はありません。南伝経典では、有分心は主人と称し、六門心路過程は客人と称する、という事が書かれています。

#166-150906

問12-18 安般念の修行をして、すでに第四禅まで証している場合、慈心観を修しないで、直接、悲心観を修して初禅を証してもよいですか?同様に、慈心観、悲心観を修しないで、直接、喜心観を修するか、または慈、悲、喜心観を修しないで、直接、捨心観を修して初禅を証する事は可能でしょうか?もし不可能であるならば、その理由は何ですか?

答12-18 修行者は、直接、慈心観、悲心観または喜心観を修して、初禅を証する事はできます。しかしながら、捨心観の修行は、第四禅しか生じる事ができません。もし、修行者が捨心観第四禅に到達したいのであれば、彼は、先に、慈心観、悲心観、喜心観の修行で、第三禅まで到達しておかねばなりません。上述の三種類の法門を段階的に修行して第三禅を証して後、それらを基礎にしてのみ、捨心観を修して第四禅に到る道はありません。

#167-150906

問12-19 安般念で、すでに第四禅まで修した後に、どうして、また白遍、褐遍、黄遍、赤遍を修して第四禅まで到達しなければならないのですか?

この四種類の遍は、どのような利益がありますか?観禅(vipassanā)の修行の支えになりますか?

答12-19 修行者は、必ずしも遍処禅を修行しなければならないという訳ではありません。しかし、遍処禅の修行は、非常に役に立ちます。その理由は:このように修行すると、修行者の定力は更に強まり、色業処、名業処および縁起の修行が非常にやり易くなります。更に、彼は、究竟名色法、究竟名法及びそれらの因を明晰に照見する事ができます。もし彼が八定を証する事ができるならば、更に良いです。

次に、もし彼が白遍、褐遍、黄遍、赤遍を基礎にして、八定を証する事ができたならば、彼は白色、褐色、黄色、赤色の物質、たとえば、石、花、雲、布等を対象に遍禅の修行に取り組む事が出来ます。そのようであれば、彼は、どんな時でも、どんな場所でも、それらの色に専注するだけで、ジャーナに到達する事ができます。このように修行する時、彼の心路過程の中に、多くの優れた善業が生まれます。こうした事から、色々な遍処を修行するのは、仏法を体験、証するのに、大変役に立ちます。

#168-150906

問12-20 安般念を修して、初めて第四禅を証した時と、白遍を修行して初めて第四禅を証した時の定力は同じですか?また、10人の人が、それぞれ10種類の異なる遍処を修行する時、初めて第四禅を証した時の定力は同じですか?

答12-20 彼らの定力は、同じではありません。たとえば、十遍の中で、白遍はもっとも静寂です。また、仏陀の第四禅は、その他の人の第四禅より更に強いです。というのも、仏陀の第四禅は、双神変を顕現できるけれど、他の人の第四禅はできないからです。マハーモッガラーナ尊者の第四禅は、その他の第四禅より強いです。というのも、マハーモッガラーナ尊者の第四禅は、憤怒の難陀跋難陀龍王を降伏させる事ができますが、その他の弟子の第四禅は、できないからです。(完)

(翻訳文責Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。