Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#231~234>問答(15)問15-22~15-25<定学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#231-150923

問15-22 ジョギングや登山の時、口で息をする時がありますが、この時はどこの息に専注すればよいですか?

答15-22 安般念の修行で言えば、修行者の心が専注する対象は、鼻孔の出口と上唇の間を通過する気息です。註釈には、口を通過する気息もまた安般念の目標になるとは書かれていません。故に、修行者が口で息をしていて、かつ上述の接触点で気息を感じる事ができない時、心は接触点において保持し、そこで息を(感じるのを)待ちます。もしも、十分な正念と忍耐力があるならば、最後には、非常に微細な息を察知する事ができます。

#232-150923

問15-23 修行者が修行を始める時、必ず安般念から始めなければならず、他の業処から始めてはいけないのでしょうか?四界分別観の修行は、深くて安定した定力を育成する事が出来ますか?四界分別観の修行に成功した修行者は何人くらいいますか?

答15-23 どの修行者も必ず安般念の修行から始めなければならない、という訳ではありません。修行者は≪清浄道論≫で述べられている40種類の業処の中から、何か一種類を選んで修行すればよいのです。仏陀が異なる法門を指導したのは、異なる機根の修行者に対応する為でした。たとえば、仏陀は、散乱心の強い修行者には、安般念の修行方法を指導しました。四界分別観は、智慧が鋭利な人に適します。慈心観は怒りの心が強い人向けです。不浄観は貪欲の心が強い人に適します。しかしながら、我々の経験では、ほとんどの修行者は、安般念または四界分別観のどちらかから始めても、成功します。というのも、彼らは過去生において、かつてこの二種類の修行か、またはその内の一種類を修行しているからです。

疑いなく、四界分別観は確実に、深くて安定した定力を育成する事ができます。四界分別観は仏陀自ら指導した業処です。もしあなたが仏陀に対して堅固な信頼感があるならば、あなたは四界分別観に対しても、堅固な信頼感があるでしょう。四界分別観を修行する時、先に四界の12種類の特徴、すなわち、硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ、流動性、粘着性、熱さ、冷たさ、支持性、推進性を観察します。この12種類の特徴に習熟したならば、それらを地・水・火・風の四組に分けます。この時、あなたの全身の四界に専注する事によって、定力を育成します。定力が強くなった時、あなたは身体が白色になっているのに気が付きます。その時、その白色体の四界に専注しなければなりません。定力がさらに強くなると、白色体は、氷の塊か、ガラスのような、透明体に変化します。その時、透明体の四界に専注します。あなたの定力が深くてかつ安定している時、透明体は、明るくて目がくらむような光芒を放ちます。

明るい光芒が半時間ほど持続する時、あなたは身体の32の部分を観察する事を始めます。四界分別観の深くて安定した定力の支えの下、あなたは自分の身体及び外部の衆生の身体の32の部分を照見する事ができます。次にあなたは個別の身体の色彩に専注する事によって、色遍の修行をして、四禅まで到達する事ができます。その後に色遍禅を取り除くことによって、空無辺処定を修行する事が出来、一歩一歩修行する事によって、非想非非想処まで到達する事ができます。あなたはその他の止禅業処の修行も簡単に成功する事ができますから、その後に観禅(vipassanā)の修行をし、各段階における観智を証します。

もう一つ、別の修行方法、四界分別観の明るい光芒の支えの下、あなたは直接色法を観照して観禅(vipassanā)の修行を始める事もできます。このように、修行者は四界分別観から修行を始めて、止禅と観禅(vipassanā)の成功まで実践する事ができます。四界分別観の利益をこのように理解するのは、修行者にとって非常に有効です。特に、安般念の修行に大きな困難を覚える修行者にとっては。

四界分別観の修行をして成功している人は、数えきれないほどいます。我々は、安般念の修行をして成功した人の方が多いのか、四界分別観で修行して成功した人の方が多いのか、確定的な事は言えません。状況がどうであれ、あなた自身の利益の為に、我々はあなたが、仏陀の教えたどの禅の修行方法においても、堅固な信頼感を持ち、かつ、正しい方法で修行する事を勧めます。

#233-150924

問15-24 禅師、慈悲をもってご説明をお願いします:四無量心における慈・悲・喜・捨の意義は?それは、どのようにすれば得る事ができますか?慈観とは何ですか?

答15-24 《清浄道論》(Visuddhimagga)によると、「慈」(mettā)とは衆生に幸福と安楽を得てほしいと願う事です;慈心観とは、瞋恚の心が重い人が清らかなになる為の修行方法です。「悲」(karuṇā)とは、衆生が苦痛から抜け出せるようにと願う事です;悲心観は、他人を傷つけたいという心の傾向が重い人が、心を清らかにする為の修行方法です。喜(muditā)とは、衆生の成功に喜びを感じる心です:喜心観は、嫌悪の心(arati)が重い人の心が清らかになる為の、修行方法です。「嫌悪」の意味は、すなわち、他人の成功を喜ばない心を言います。捨(upekkhā)とは、衆生に対して平等で、中立的な態度を言います;捨心観は、貪愛の心が重い人の、清らかになる為の修行方法です。

慈・悲・喜・捨を四無量心といいます。というのも、それらは無量の衆生を修行の対象としているからです。この四種類の心は、宇宙のすべての有情を対象に、遍満していなければなりません。一人、または一地域の衆生に(それが)届けばよい、という事ではありません。これが、それらを無量心と呼ぶ理由です。

慈観または慈心観は、衆生に対して慈愛を育成する禅の修行方法です。それは四無量心の内の一種です。

四無量心を修行しようと思う人は、先に慈心観を修行しなければなりません。その後に、順序よく悲心観、喜心観と捨心観を修行します。もしあなたがすでに白遍またはその他の遍処禅を修習した事があるのならば、あなたは、座禅する度に白遍を瞑想の目標にして、その都度、あらためて白遍の第四禅を打ち立てる事をお勧めします。それは、第四禅の光(智慧の光)があなたの所縁――一人の個人又は衆生――をはっきりとあなたの心の中に顕現させ、すぐには消えないようにする事が出来るからです。慈心観の修行を始める時、まずは、下記の四つの願望によって、自分自身への慈愛を育てます:私に怨敵がいませんように、私に心理的な苦痛がありませんように、私に身体的な苦痛がありませんように、私が安楽で、自分自身を尊びますように、と。あなたの心が柔軟で優しく、安らかになった時、あなたと同性の、かつあなたが敬愛する人に向かって慈愛を育成します。先に、彼または彼女の笑顔または全身を思い浮かべ、その後に以下の四種類の願望の中の一種をもって、慈愛を拡散し届けます:この善き人に怨敵がありませんように、この善き人に心理的な苦痛がありませんように、この善き人に身体的な苦痛がありませんように、この善き人が安楽で、自分自身を尊びますように、と。彼または彼女に対して、強くて力のある慈愛を育成し、これによって、あなたは慈心初禅、第二禅、第三禅までを証します。次に、残りの三種類の願望に従って、彼または彼女に向かって慈愛を育成し、一つの種類毎に慈心第三禅までを証します。このような方法で、だいたい10名くらい、あなたと同性で、あなたが敬愛している人、10人くらいの、あなたが好きな人、10人くらいの、あなたにとって好きでも嫌いでもない人、10人くらいの、あなたの嫌いな人に対して一つ一つ慈愛を育成します。

彼ら一人一人に対して慈心第三禅まで到達できるように修行した後、四種類の人間への限界を突破しなければなりません。四種類とは;一、自分自身。二、あなたが好きな人(あなたが敬愛する人を含む)。三、あなたが好きでも嫌いでもない人;四、あなたが嫌いな人。先に、短時間、自分自身に向かって慈愛を拡散します。その後に、あなたが好きな人(一人)、次に好きでも嫌いでもない人(同左)、次に嫌いな人(同左)に慈愛を届けますが、この三種類の人全員に対して、慈心第三禅に到達しなければなりません。二巡目は、上記と同じ方法ですが、また別の、好きな人(一人・以下同様)、好きでも嫌いでもない人、嫌いな人に対して行います。三巡目はまた人を変えて、同じ事を実践します。このように、絶え間なく四種類の人に向かって慈愛を育成します。最後には、あなたは人々に対する限界を突破する事ができますが、それはすなわち、あなたがこの四種類の人々に対する慈愛が完全に等しくなり、差別がなくなる事を意味します。

限界を突破した後、あなたは各種の方式に従って、一切の衆生に対して慈愛を遍満させる事ができるようになります。一つの小さな範囲の中の衆生から始めて、だんだんに宇宙全体にまで広げていき、その後に10の方角の衆生に対して、慈愛を遍満させます。慈心観の修行に成功した後、あなたは同様の方法を援用して、段階を追って、悲心観、喜心観と捨心観の修行をする事ができます。以上に紹介したのは、だいたいの要約です。詳しい説明は≪清浄道論≫≪智慧の光≫≪如実知見≫を閲読して下さい。または、あなたの禅の修行がこの段階にまで到達した時、私は、どのようにして段階を追って四無量心を修行するのかを、教える事ができます。

#234-150924

問15-25 このリトリートに参加してから昨日まで、毎晩眠れません。夜に夢をたくさん見るので、寝るのが怖いです。というのも、寝ると、寝ないよりなお疲れるのです。座禅堂に行くと昏沈し、コーヒーを飲んでも眠気が消えません。修行は、一進一退で、なかなか安定しません。初心者なので何を質問していいかも分かりません。助手の先生に聞くと、慈心観の練習をすれば、夜は良く眠れると教えてくれました。本を見ると、初禅、二禅、三禅観と書いてあります。初心者で、ジャーナに一度も入った事がないのに、慈心観を(生活に)応用できるのでしょうか?

答15-25 仏陀は、《増支部》(Aṅguttara Nikāya)の中で、慈心観の修行に関する11種類の利益について、述べています。

「比丘達よ。慈心解脱が育成され、拡張され、勤勉に修習され、制御され、基礎が固まり、確立され、安定的にかつ正確に修行される時、11種類の利益を手に入れる事ができる。どのような11種類の利益か?安心して眠る。安心して目覚める。悪夢をみない。人に愛される。非人に愛される。天神に守護される。火、毒薬および武器によって傷つく事がない。心が容易に定に入る。容貌が穏やかになる。臨終の時、迷わない。最高の成就を証悟できないとしても、梵天界に生まれる事ができる。」

而して、≪無礙解道≫(Paṭisambhidāmagga)に記載されている528種類の、慈愛を遍満させる方法に精通した後でしか、十分に11の利益を得る事ができません。修行者が、いまだ慈心禅のレベルに到達していないのであれば、部分的、限界的な利益を得るのみです。すでにジャーナのある人と、ジャーナのない人の二種類の修行者について言えば、慈心観の修行手順は、皆、同じですが、ただ、修行のレベルは修行者の願望によって異なります。たとえば、四種類の方式で自分に対して何分間か慈愛を拡散した後、自分と同性で、かつ敬愛している人に慈愛を拡散したとします。もし、修行者の目的が、ただ自分の心を鎮める為だけであるならば、修行者の心が静かで、優しく、安らいだならば、瞑想の対象をすぐに、別の敬愛する人に代えても構いません。

しかしながら、もし修行者の目標が慈心ジャーナを証する事であれば、彼は引き続きその人に対して、定力が慈心第三禅に到達するまで、慈愛を育成しなければなりません。第三禅までできてから後、初めて別の一人の敬愛する人に(瞑想の対象を)交換する事ができます。このように、10人くらいの、自分と同じ性別の敬愛者に対して、逐一慈愛を育成します。その後に、自分と同じ性別の10人の親愛者、10人の好きでも嫌いでもない人、10人の嫌いな人に対して、逐一慈愛を育成します。

その後に、人への限界を突破しなければなりません(未だジャーナに到達しない者は、ある程度の効果しか得る事ができず、人への限界を、本当には突破する事はできません)。修行者は、不断に、自分、好きな人(敬愛者を含む)、好きでも嫌いでもない人、嫌いな人に対して、彼らへの慈愛が平等になるまで、慈愛を育成しなければなりません。そして、次に、慈愛を遍満する衆生の範囲を徐々に拡大していきます。すなわち、一切の有情、一切の生命ある者、一切の生物、一切の個人、一切の個体、一切の女性、一切の男性、一切の聖者、一切の非聖者、一切の天神、一切の人類、一切の悪道の衆生に、です。無辺の宇宙の無量の衆生に対して慈愛を遍満させるまで実践します。それを徐々に、10の方角の衆生に慈愛を遍満させます。慈心ジャーナに到達した人が、これらの修行方法を徹底的に修行すれば、これらの対象を明らかに照見する事ができ、かつ彼らに対して強くて力のある慈愛を育成する事によって、定力を第三禅まで上昇させる事ができます。しかしながら、未だジャーナに到達していない修行者について言えば、ただ想像と願望を頼りに、修行するしかありません。そうではあっても、このように修行する事は、彼にとっては善業を蓄積している事になり、優しく安らいだ心になる事ができるので、焦慮を取り除く事が出来、それによって安眠を得る事ができます。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。