南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー問答集~#239,240 >問答(15)問15-30,15-31<定学疑問編>

11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#239-150926

問15-30 《清浄道論》の中で、定は近行定(upacāra-samādhi)と安止定(appanā-samādhi)の二種類があると書かれています。この論の中では、「刹那定」(khaṇika-samādhi)については、あまり触れられていないようです(一度だけ出てきた記憶が・・・)。「刹那定」のそもそもの定義とは、どのようなものですか?

答15-30 もしあなたが刹那定について知りたいのであれば、私は《中部・安般念経》の経文の一部を引用して説明しますので、しっかり聞いてください。

‘Samādahaṁ cittaṁ assasissāmī’tisikkhati、 ‘Samādahaṁ cittaṁ passasisāmī’ti sikkhati。――「彼はこのように訓練します:『私は平静な心で息を吸おう』;彼はこのように訓練します:『私は平静な心で息を吐こう』」

どういう意味か?あなたは専注する心で息を吸い、息を吐かねばなりません。《清浄道論》では、以下のように解釈しています。

平静(Samādahaṁ)心(cittaṁ):バランスよく(samaṁ)置く(ādahanto)、心を。すなわち、初禅などを通して、心を対象に対してバランスよく置く事。

あるいは、それらのジャーナに入って、次にジャーナから出た後、観智でもって、それらのジャーナと相応する心が必ず潰滅または壊滅するのを観照し、観智が生起した時に、刹那的な心一境性が、無常等の相を洞察する事を通して生起する事を知ること。ということで、「彼はこのように訓練します:『私は平静な心で息を吸おう』;彼はこのように訓練します:『私は平静な心で息を吐こう』」という表現は、このように生起した刹那の心一境性によって、心をバランスよく、瞑想の対象に置く修行者の事を指してもいます。

理解できましたか?私は更に説明を加えます。

まず、あなたは安般初禅に入り、次に初禅から出定します。そして、その後に、あなた初禅の34種の名法を無常・苦及び無我であると観照します。

同様に、あなたは第二禅に入り、第二禅より出定します。そして、その後に、第二禅の32種の名法を無常・苦及び無我であると観照します。

あなたは同様の方法で、第三禅と第四禅を修習します。

このように、あなたは先にジャーナに入り、次にジャーナから出てきて、その後にジャーナ名法を無常・苦及び無我と観照します。もしあなたがこのように修習するならば、ある種の「定」が生じます。当該の定は、あなたにおいて、ジャーナ法の無常・苦及び無我の本質に専注できるようにします。この種の定を刹那定と言い、それは非常に深い刹那定です。

概念または究竟法などを瞑想の対象として了知する事は、決して、刹那定ではありません。

あなた方は、刹那定とは何か、理解できましたか?これが刹那定のもともとの意味です。この種の刹那定は、特に観禅(vipassanā)の刹那定を指します。

このようであるから、もしあなたが目を閉じて色聚を見る事ができて、色聚の分析と究竟色法の識別が出来たならば、あなたは特別に定力を育成する必要はありません。もし、あなたがそのような状況でないならば、あなたは定を修しなければならず、定力を育成しなければなりません。

#240-150926

問15-31 禅師。禅定に入っている時、なぜ禅支の検査、観の修習ができないのか、詳しく説明して下さい。定の外で観を修するとは、どういう事ですか?出定後に禅支を検査する事が<定外修観>なのですか?

答15-31 定は三種類あります。すなわち、刹那定(khaṇika-samādhi)、近行定(upacāra-samādhi)、安止定(appanā-samādhi)又はジャーナ定(jhāna-samādhi)です。この三種類の定力の深さを比較すると、安止定は近行定より深く、近行定は刹那定より深い。ただ近行定または安止定から出てきた後でしか、禅支の検査または観禅(vipassanā)はできません。これは、瞑想の対象が異なる為です:禅支は近行定または安止定の対象にはなりえません;観禅(vipassanā)の修行をする時に専注する対象は、近行定や安止定の対象と同じではありません。

修行者が止禅を修行する時、たとえば安般念を修行する時、彼の近行定と安止定の対象は安般似相(ānāpānassati-paṭibhãga-nimitta)で、禅支ではありません。禅支に専注しても、近行定や安止定に到達する事はできません。修行者が一心に安般似相に対して非常に長い時間融入した後、彼が禅支の検査を開始しようとする時、彼はすでに近行定または安止定から出てきており、その時の彼の定力はただ刹那定のみです。これが、近行定または安止定の中で禅支を検査できない理由です。

「定外修観」とは、近行定または安止定から出てきて後、究竟名色の照見及びそれらの無常・苦・無我を観照する事を言います。これは止禅ジャーナ(sammatta-jhāna)の外で観照します;しかしながら、その時は、まだ刹那定があるので、当該の刹那定を観禅ジャーナ(vipassanā-jhāna)と言います。その前に修行者が入っていた近行定または安止定は、修行者にとっては、観禅の目標をはっきりと照見する為の強力な助縁になります。このように、止禅ジャーナは、観禅ジャーナを支援する事ができます。

観禅(vipassanā)とはすなわち、行法の無常・苦・無我を照見する事ですが、故に、修行者はただ禅支を検査しているだけの時、観禅(vipassanā)を修行しているとは言えません。観禅(vipassanā)を修行したいのであれば、禅支を照見する以外に、心路過程によって、ジャーナの中において共にある、その他の名法を照見しなければなりません。たとえば、初禅の中には通常34個の名法がありますが、修行者はそれらをはっきりと照見できなくてはなりません。これは見清浄の始まりの段階であり、観禅(vipassanā)の基礎でもあります。その後、修行者はそれらを無常・苦・無我として観照しなければなりません。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。