Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#252、253>問答(15)問15-43、15-44<慧学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#252-150928

問15-43 《清浄道論》では、観禅(vipassanā)を修習する前、「見清浄」(diṭṭhi-visuddhi)の段階において、名色法、すなわち、89心(citta)16、52心所(cetasika)、四大(mahābūta)及び24種類の所造色(upāda rūpa)をはっきりと識別しなければならない、と言っています。禅師はどのようにお考えですか?

答15-43 これは《清浄道論》の見解です。我々もまた、《清浄道論》の指示する所と同じ意見です。

究竟色法及び究竟名法は苦聖諦(dukkha sacca)です。それらの因は苦集聖諦(samudaya-sacca)です。苦諦法と集諦法は観禅(vipassanā)の対象です。

では、観禅(vipassanā)とは何でしょうか?ただ究竟色法、究竟名法及びそれらの「因」を無常・苦・無我であるとみなすときのみ、初めてそれを、観智と呼ぶことが出来ます。

もし究竟色法、究竟名法及びそれらの「因」を見ていないのに、あなたが観禅(vipassanā)の修習にチャレンジするのならば、それは浅薄な修行であり、真実の観禅(vipassanā)ではありません。

#253-150928

問15-44 もし修行者が名色または縁起を徹底的に見る事が出来ない時、彼は「生滅随観智」(udayabbayañāṇa)を成就する事ができますか?

答15-44 ここにおいて、名色は究竟名法及び究竟色法である事(を確認しておきましょう)。それらは苦聖諦であり、苦諦法(dukkha-sacca-dhamma)でもあります。

無明(avijjā)、渇愛(taṇhā)、取(upādāna)、行(saṅkhāra)及び業(kamma)という、この5個の因は苦集聖諦です。それらは究竟名色法の因です。《立処経》17(Titthāyatana Sutta)の中で、仏陀は縁起もまた苦集であると言っています。

苦諦法と集諦法は観禅(vipassanā)の対象です。

もし人が、この二種類の聖諦を見ていないのに、生滅随観智を育成しようとするならば、彼の修行は、皮相なものになり、真実の観禅(vipassanā)ではありません。どうしてか?《清浄道論》は、《無礙解道》(Paṭisambhidhāmagga)を引証して、50種類の生滅随観智を列挙しています。

そんな訳で、私は《無礙解道》の経文を一部引用して説明します。

(1)無明が集起する為、色が集起します(avijjā-samudayā rūpa-samudayo);

(2)(渇)愛が集起する為、色が集起します(taṇhā-samudayā rūpa-samudayo);

(3)業が集起する為、色が集起します(kamma-samudayā rūpa-samudayo);

(4)食が集起する時、色が集起します(āhāra-samudayā rūpa-samudayo )

(5)色蘊の生起を見る時、生起相を見る(nibbhati-lakkhaṇaṁ passanto pi rūpakkhandhassa udayaṁ passati)。

これはどういう意味でしょうか?私はここで解説してみたいと思います。生滅随観智の段階においては、二種類の生、二種類の滅、二種類の生滅があります。

二種類の「生」とは:

(1)因縁生(paccayato udaya)。

(2)刹那生(khaṇato udaya)。

二種類の「滅」とは:

(1)因縁滅(paccayato vaya)。

(2)刹那滅(khaṇato  vaya)。

二種類の「生滅」とは:

(1)因縁生滅(paccayato udayabbaya)。

(2)刹那生滅(khaṇato udayabbaya)。

上記の事から、あなたが生滅随観智を修習したいのであれば、あなたは先に五蘊、すなわち、究竟名色法を了知しなければならない事が分かります。それらは苦諦法です。

五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します。故にそれらは無常です。これは刹那生滅です。その後に、あなたは五蘊の因縁生を了知しなければなりません。五蘊の因縁生とは何でしょうか?

(1)無明が生起するが故に、五蘊が生起する。

(2)(渇)愛が生起するが故に、五蘊が生起する。

(3)取が生起するが故に、五蘊が生起する。

(4)行が生起するが故に、五蘊が生起する。

(5)業が生起するが故に、五蘊が生起する。

これを因縁生と言います。故に、全体では五種類の過去因があると言えます:無明・(渇)愛・取・行と業です。あなたは前世において、この五種類の過去因を蓄積しました。すなわち、第二聖諦;苦集聖諦です。

現在の五蘊の集は、過去世によってなされたのであって、今世ではありません。しかし、あなたが今世でこの五種類の因を蓄積するならば、それらは未来の五蘊の因となります。故に、もしあなたが過去の五種類の因、すなわち、無明・(渇)愛・取・行及び業を識別するならば、我々はあなたが苦集を了知した、と言います。しかし、あなたは再度、以下の事を観照しなければなりません。五種類の過去因が生起するが故に、現在の五蘊が生起する。あなたはこの種の因果関係をなんらかの方法でもって、了知しなければなりません。

この五種類の因の中で、業は非常に重要です。業とは何でしょうか?《発趣論》(Paṭṭhāna)の「業縁論」(kamma-paccayapabba)の中において、行の業力を業と言う、と述べています

行とは何でしょうか?あなたすでにどこか一つの前世において、善行を蓄積しています。どのような種類の善業でしょうか?我々は確定的な事は言えません。もしあなたが観禅(vipassanā)を修習し、縁起を識別したならば、その時、あなたは確実にそれを了知する事ができます。それらの善行は、布施であり、又は持戒であり、又は禅の修習であったり、また、たとえば慈心観、安般念及び観禅(vipassanā)の善業で(あったりしま)す。どの善業がこの世の五蘊を生起せしめたかを了知する為には、あなたは苦の集まで遡らなければなりません。

例を上げて説明しましょう。我々の菩薩悉達多太子は、過去世で多くの波羅蜜、すなわち善業を蓄積しました。これらの善業の内、いまだ慈心ジャーナに到達しえていない慈心善業、特に慈心ジャーナの前の近行定が、彼の最後の一生の五蘊を生じさせました。彼は多くの波羅蜜、多くの善業を蓄積しましたが、これらは皆、その五蘊を生じさせる業ではありません。これらの善業の内、ただ慈心ジャーナの前の近行定が彼の最後の一生の五蘊を生じさせたのです。

このようであるから、あなたも何らかの方法で、自分の善業を知る必要があります。あなたが知見する必要があるのは、どの善業でしょうか?あなたはすでに多くの業を蓄積しました。これほど多くの業の中で、ただ一種類の業力だけが、あなたの今世の五蘊を生じせしめました。当該の業が生起したが故に、現在の五蘊が生起する。もしあなたがこのように知見するならば、我々は、あなたは因縁生を見た、と言うでしょう。

同様に、因縁滅もあります。因縁滅とは、無明・渇愛・取・行及び業というこの五種類の因が、あなたが阿羅漢道を証悟した時に、余す所なく滅尽する事を言います。無明・渇愛・取・行及び業というこの五種類の因が、阿羅漢道智(arahatta maggañāṇa)によって余す所なく滅尽する時、五蘊もまた般涅槃の時に、余すところなく滅尽します。因縁滅を了知する智慧を、因縁滅智と言います。

故に、因縁生智と因縁滅智の両方を合わせて因縁生滅智(paccayato udayabbayañāṇa)と言います。

以上から、二種類の生滅智がある事が分かります。

(1)因縁生滅智(paccayato udayabbayañāṇa)。

(2)刹那生滅智(khaṇto  udayabbayañāṇa)。

もし、いまだ究竟色法、究竟名法、及びそれらの因を見ていないのであれば、あなたは生滅智という観智を育成する事はできません。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。