Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#254、255>問答(15)問15-45、15-46<慧学疑問編>

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#254-150928

問15-45 禅師。知人が「ある種の人々が《法句経》を引用して、仏陀が『定の無い慧はない。慧の無い定はない』18と言っている」といいます。ある種の人々は、観禅(vipassanā)の修習をしている時定力がつくのだから、止禅の修習をしなくてもよい、と言っています。また、止禅を修習している人は結局は、観禅(vipassanā)を修習しているのだ、とも言っています。禅師に《法句経》のこの偈を定義して頂きたいと思います。

答15-45 あなたの言う所の偈を見せてください。私はその偈の全部を覚えていませんが、もし全部を読めば、私には詳細な説明が出来ると思います。

これは、止禅と観禅の相互的な組み合わせの事だと思います。《増支部》(Aṅguttara Nikāya)の中に《双連経》(Yuganandha Sutta)というのがありますが、それは比丘がどのようにして止観を相互に組み合わせて修習するかについて述べられたものです。

たとえば、一人の比丘が初禅に入るとして、これは止禅です。ジャーナから出定して、彼は初禅の名法を無常・苦・無我と観照しますが、これは観禅(vipassanā)です。

次に、彼は第二禅に入りますが、これは止禅です。ジャーナから出定して、彼はジャーナ法を無常・苦・無我と観照しますが、これは観禅です。このように、止禅と観禅を交互に組み合わせます。彼は、同様にこの方法でもって、その他のジャーナも修習します。この種の修行方法は《増支部・双連経》で述べられています。

《諦相応・三摩地経》による、もう一つの解釈の方法は、専注する心は、如実に究竟法を了知する事ができる、という事です。もし比丘が定を育成したならば、彼の専注する心は、四聖諦を知見する事ができます。これは自然な事です。このように、定力と観智は一緒に生起します。

同様に、もし我々が究竟名色法及びそれらの因を無常・苦・無我と観照するならば、この時、定も生起します。これは刹那定であって、我々はすでに各種の定について、色々話し合った事があります。

しかし、定がなければ、究竟名色法及びそれらの因を知見する事ができないので、それらの無常・苦・無我を照見する事もできないのです。このように、定もまた非常に重要なのです。

#255-150928

問15-46 今世において、貧困で病弱であるという果報は、過去世と関係がありますか?もしあるのだとすれば、それは宿命論ですか?それとも常見ですか?

答15-46 この件については、あなたは人道における生活と天道、地獄道における生活を分けて考えなければなりません。天道と地獄道は、業果生活地(Kammaphalūpajīvi-bhūmī)と言い、すなわち、当該の道の衆生は過去の業力の果報によってその生活(様式を)手に入れています。人道は、精進果生活地(uṭṭhānaphalūpajīvi-bhūmī)と言い、すなわち、人道の衆生は、精進の結果によって生活しています。過去世の業力が原因で、天道と地獄道の衆生はなんらの努力もしなくても、自然に楽しいか又は苦痛な生活を送ることになります。人道の衆生はこれとは違い、彼らの生活は、過去世の業力と関係があるだけでなく、今世の努力と智慧に影響されます。故に、業力、努力と智慧は、人の幸福を決定する三つの要素なのです。

先ほどあなたが言っていた貧富の問題を例にすると、もし一人の人間が、金持ちになる善業力が熟し、かつ十分な努力をし、智慧を運用するならば、彼は大富豪になる事が出来、かつ自分の財産を楽しむ事ができるでしょう。

しかしながら、もし、一人の人間が、金持ちになる善業力は熟したものの、努力もしない、智慧も運用しないのであれば、たとえ多くの富を手に入れても、保有する事が出来ず、最後には富を失い、零落します。仏陀の時代に生まれた大富長者子(Mahādhanaseṭṭhīputta)は、とてもよい例です。彼と彼の妻はそれぞれ八億元に達する遺産を貰い受けました。しかしながら、その後彼らはすべての財産を失い、乞食になったのです。この事以外に、彼には充分な善業力があり、それは、彼のその一世の内に彼が阿羅漢を証悟する事が出来るほどの支えになったのに、彼は何ら努力もせず、智慧も用いず、仏法の修行をしようとはしませんでした。そして、彼は臨終のその時まで、哀れなただの凡夫だったのです。

もし一人の人間が、彼には富に到る善業力がないとしても、しかし努力することと、智慧を運用して金儲けをすれば、富豪になる事はできなくても、ある程度の快適な暮らしを手に入れる事はできます。このように、努力と智慧は、業力よりはるかに重要なのです。

<3匹の魚>という物語が、我々に更にはっきりと理解させてくれます。昔、漁師がいて、ガンジス河で3匹の魚を捕まえました。3匹の中の1匹は努力を信じ、1匹は業力を信じ、1匹は智慧を信じました。努力を信じる魚は、努力さえすれば、網から逃げおおせると思い、再三再四網を飛び越えようと、飛び上がりました。漁師はそれを見て怒り、船の櫓で思い切り殴りつけたので、魚は死んでしまいました。業力を信じる魚は、自分には悪運から逃げおおせる善業力があり、その業力が自動的に果報をもたらしてくれると思い、甲板の上に静かに身を横たえて待っていました。彼は、善き運が自動的にやってくると思って、少しも努力をしなかったのです。三番目の魚は智慧を信じていましたから、理性的な行動でもって、逃げおおせようと考えました。その為に、彼はずっと周囲の状況を観察し続け、行動に出るチャンスを窺っていました。

漁師が船を川岸に付けました。船が岸についた時、漁師の足が、片方は船に、片方が岸に乗りました。その時漁師が油断したため、漁網の口が少し広がりました。智慧を信じるその魚は、千歳一遇のチャンスとばかりに、網のすきまから飛び出して、水中に飛び込み、即刻、ガンジス河を泳いで行きました。

この物語から我々は、智慧が、三つの要素の内、最も重要なものなのだ、という事が分かります。

病気に関しては、可能性のある要素は4つあります。すなわち、業力、心理的要素、時節(火界)と食物です。すべての疾病が、業力による訳ではありません。仏陀は道理(vibhajja-vāda)を弁えていました。人々に、因があって、果があると教えました。因がなければ果もないのです。このような因果正見は、宿命論でもありませんし、常見でもありません。もしあなたが自分の運命を、すでに完全に決定されていて、変更は不可能だと信じているのならば、あなたは宿命論者という事になります。

私はここで《アビダルマ蔵》における正性定法、邪性定法と不定法の間の違いを説明したいと思います。

正性定法(sammataniyata dhamma):四聖道は、即刻果報を得る事のできる正性定法です。それらが生じさせる果報――四果智――に続いて、それらの後に生じます。道智と果智の間には間隔がありません。これが、四聖道智というこれらの出世間法の運用法則です。その結果は固定的です。故にそれらは正性定法と言われます。

邪性定法(micchattaniyata dhamma)は、無間果報を有する五重業(五逆罪)、及び果報固定であるところの邪見(を指します)。

「果報固定」とは、臨終の時に、それらの業が必ず即刻に果報を生じせしむるものを言い、その果報は、他の何らの方法をもってしても、それらを制圧できないもの。たとえ、業の造り手が須弥山ほどの高い金の塔を建てたとしても、または、全世界の広さに金銀宝石をちりばめたとしても、またそのような場所に多くの比丘と仏陀本人を住まわせ、一生の間、彼らに四資具を供養したとしても、彼はこの業の果報から逃げる事はできないのです(《殊勝義註》)。

註釈でいう所の定(niyata果報固定)の邪見とは:

(1)無因論者が所持する邪見。(2)無作為論(業力無効論)者が所持

する邪見。(3)断論者が所持する邪見。

もし、あなた方がこのような邪見を捨てないならば、100尊または1000尊の仏であっても、あなた方を開悟させる事はできません。

不定法(aniyata dhamma):残りの善法、不善法と不定法で、欲界、色界または無色界であろうとも、固定的な果報がないもの。

仏陀の教えに基づくと、一つの業力が熟し、かつ今まさに果報を結ぼうとしている時、その業力の果報は決定的であり、変更する事はできません。しかしながら、一つの業力がいまだ成熟していない時、その果報は未だ決定的でなく、変更する事は可能です。マハーモッガラーナ尊者は、明らかな例の一つです。彼は般涅槃の前、彼が過去のある生において、父母を殺害しようとした悪業力が熟し、故に彼は全身の骨が粉々になる程に殴打されました。たとえ、彼がすでに阿羅漢果を証悟していたとしても、この種の悪報を変更させる事はできませんでした。しかし、彼はすでに一切の煩悩を断じ尽くしていましたので、その時の生においてすでに成熟したそれらの業力以外の、その他の業力は、みな果報を生じせしめる事はできませんでした。般涅槃の後、彼は生死輪廻から解脱しました。

もしあなたが、あなたの前世と今世は、同じ人物であると信じるのであれば、すなわち、同じその人が前世から今世に来ると信じる、又はあなたは、一つの霊魂が一つの世からもう一つの世に生まれ変わるのだと考えるならば、それは常見です。仏陀の教えによると、霊魂の存在も、自我の存在もありません。あなたの前世は、刹那生滅する名色法によって構成されており、あなたの今世もまた、刹那生滅の名色法によって構成されていて、それらは異なるものなのです。「変わらないあなた」とか「変わらない人」などという存在はないのですが、過去世で蓄積した業力は、今世の五取蘊を生じさせ、それらの間には因果関係があり、全くの無関係でもありません。このように、仏教は、宿命論でもなく、常見でもありません。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu)。