Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#284~289>問答(16)問16-14~16-19<戒学疑問篇>6編

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#284-151008

問16-14 私は元々、出家して戒定慧を修行しようと思っていました。特にパオの禅法を。しかし、幾人かの、戒清浄を持しているという人々が、しっかり修行をしていなくて、人の是非を語り、批判精神が非常に強い。私は内心とても悲しくて、又怖く感じます。持戒清浄である人が、なぜ人を許さず、慈悲をもって人と対さないのでしょうか?

答16-14 あなたは、それらの人々を気にする必要はありませんし、その他の人々の影響を受ける必要もありません。あなたは、仏陀でさえも、批判や誣告された事を忘れてはいけません。もし誰かがあなた又はその他の人々を批判したり、是非を言う時、それはその人個人の悪業であり、あなたはその人と同じ態度で対応してはいけません。

#285-151008

問16-15 持戒が謹厳で、清浄であると自認しながら、他人の是非を問い、他人の欠点を言い続け、瞋恚の心が強く、嫉妬心も強い人がいます。このような人は、仏陀の教えに見合っているのでしょうか?禅の修行に障礙が出ますか?

答16-15 このような人は、仏陀の教えに見合いません。そして、禅の修行は、彼にとって困難になるでしょう。《清浄道論》に以下のような記載があります。

古の頃、ある時、一人の長老と一人の年若い比丘が、村に行って托鉢しました。最初の一軒目に来たとき、彼らはお玉一杯の熱いお粥を貰いました。その時長老は胃の中に風が生じて、胃に強い痛みを感じたので、心の中でこう考えました「このお粥は私にとって利益がある。私はこれが冷めないうちに飲んでしまおう」と。居士たちは、椅子を一脚持ってきて、門の外に置きました。長老は座って、お粥を飲みました。年若い比丘は、それを見て嫌悪し、言いました「この老人は、自分の飢餓に打ち負かされて、彼が恥ずかしいと思うべき事をしでかした」と。

長老は托鉢を終えて、寺院に戻った後、年若い比丘に聞きました:

「賢者、仏陀の教えの中で、あなたは何か立脚点を得ましたか?」

「はい、尊者、私は須陀洹です」

「賢者、それならば、あなたはそれより高位の聖道を証悟するために努力する必要はありません。というのも、あなたは漏尽者を侮辱したからです」

その時年若き比丘は、すぐに長老に向かってお詫びしました。こうして、聖者を侮辱することによって、更に高位な聖道を証悟できなくなる障礙を取り除いたのでした。

もし人が聖者を批判してかつ詫びないのであれば、彼はその一世では、いかなる道果も証悟する事ができません。もし、果位の低い聖者が果位の高い聖者を批判してかつ詫びないのであれば、彼は更に高位の道果を証悟する事はできません。実際、どのような人をも批判する事はよくない事です。というのも、我々には、どの人が聖者であるか、分からないからです。

#286-151008

問16-16 前回、禅師は、聖者に悪をなすと、その果報は相当に重いものになるとのお話でした。どうして、同じ悪行でありながら、聖者と凡夫では、その(受ける)果報に違いがあるのですか?

答16-16 聖者の戒定慧は非常に高尚であって、凡夫の戒定慧はレベルが低いからです。ある種の人々は、戒定慧すらありません。

#287-151008

問16-17 もし聖者を傷つけたとして、因と縁がなく、又は勇気が無くて、相手に詫びを言えない時、心の中で詫びる、又は仏像に懺悔するとして、このよう有様であっては、道業に障礙が生じますか?

答16-17 はい。やはり、道業に障礙が生じます。もしその聖者がまだ生きているならば、やはり本人にお詫びを言いに行くべきです。もし、その聖者が亡くなっているならば、彼のお墓か、または遺骨の前でお詫びするべきです。

#288-151008

問16-18 手でお金を掴む出家者(訳者注~直接金銭の授与をする比丘)は、初果を証することができますか?

答16-18 上座部の教えでは、真実の比丘が金銭の授与に関わったならば、須陀洹道果を証悟する事はできません。金銭の授与をしている比丘達の中で、須陀洹道果を証悟したと言っている人はいますが、もし彼が真正の比丘であれば、あり得ない事です。この点に関して、私は上座部の戒律について解説したいと思います。一人の人が、真正の比丘になりたければ、以下のような五つの条件を具備していなければなりません:

第一の条件は、「有効の事」(vatthusampatti):これは戒を受ける人が、失効する要素を持って居ない事。彼はかつて父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺しをしていない、また、仏陀の身体を傷つけた事がなく、サンガの分裂を画策した事もなく、比丘尼またはサーマネラ尼と淫行をした事がない、頑固な邪見を持していない、20歳以上である事、など等です。

第二の条件は、「有効なサンガ」(parisasmpatti):もしも、インド以外で具足戒を受ける場合、戒師を含め、戒を伝える時に、最低5人の真正なる比丘によって羯磨が執り行われなければなりません。インドの中であれば、最低10名が必要です。もしその中の幾人かの比丘が波羅夷罪を犯した事がある場合、または以前に受戒した時に如法でなかった場合、真正の比丘の人数が足りない事になり、羯磨は失効します。

第三の条件は、「有効なる結界」(sīmāsampatti):もし界が無効である時、たとえば、電線、水道管があって、布薩堂と界の外の建築物とが繋がっている場合、この戒を伝える羯磨は失効します。また、羯磨に参加する比丘達の間の間隔は、二個半の腕の長さを超えてはなりません。

第四の条件は、「有効なる動議」(ñattisampatti):参加者の中の一人の比丘が動議を宣告して、その他の比丘に、戒子が具足戒を受けたいと思っている旨、及び誰が彼の戒師であるかを知らせなければなりません。動議を行った後、羯磨を三度宣し読まねばなりません。もし、動議を宣し読み上げる時、及び羯磨の時の順序が不正確かまたは不完全である時、戒を伝える羯磨は失効します。

第五の条件は「有効なる羯磨」(kammavācasampatti):正確な言葉で羯磨を宣し読まなければなりません。もし間違った語法を用いたならば、戒を伝つたえる羯磨は失効し、戒子は真正の比丘になる事はできません。

この五つの条件を満たした時のみ、当該の羯磨は効力を発します。もし、一人の、金銭を手で掴む真正の比丘が観禅(vipassanā)の修行をする時、彼は須陀洹道果を証悟する事はできません。もし、手で金銭を掴む比丘が本当に須陀洹道果を証悟したのならば、その人は、真正の比丘ではありません。

現在、上座部仏教では、比丘尼とサーマネラ尼の伝統が途絶えてしまいました。故に、我々は彼女たちの状況を論談する必要はありません。現在、我々には「戒女」しか存在していませんが、彼女たちを尼師と呼んでもいいかも知れません。彼女達もまた袈裟を着ている為、多くの大長老は、彼女達は10戒を守るべきで、お金に触るべきでないと思っています。とはいえ、彼女たちは、自分の考えに従って、お金を受け取る事はできます。

#289-151008

問16-19 禅師は以前、木の神様が、比丘達がその木の下で大便をしたので、彼らを殺してしまったとお話されました。木の神様が出家者を殺すのは、悪い報いがありますか?彼は地獄に堕ちますか?

答16-19 はい。それは悪業であり、悪い報いがあります。もしその悪報が臨終の時に熟したならば、彼は地獄に堕ちる事になります。

《律蔵・経分別》の中に記載されている話は、以下の通りです。アーラヴィー市に住む大勢の比丘が、木を切って家を修理しようとしました。ある時、アーラヴィー市に住む一人の比丘が、木を切ろうとしました。当時、その木に住んでいた女神は、彼に言いました:「尊者。あなたのご自分の住まいの為に、私の家を切らないで下さい」と。

しかしながら、この比丘は彼女に構わず、その木を切り倒してしまい、かつ、女神の息子の肩を傷つけました。その時、女神は思いました:「私は今すぐ、この比丘を殺すべきかどうか。しかし、そうする事は私にとって、妥当ではない。この事は、仏陀に報告しておいた方がよいかもしれない」と。こうして、彼女は仏陀に会いに行き、仏陀に事件を知らせました。

仏法は彼女に向かって言いました:「よかった、女神よ。あなたはあの比丘を殺さなくて。もし、今日、あなたが彼を殺したならば、あなたは多くの悪業を成した事になります。ある所に一本の木があるので、あなたはそこに行って住みなさい」

その後、大衆はアーラヴィー市の比丘が木を切った行為を問題にして批判したので、故に、仏陀は比丘と比丘尼の為に一条の戒を制定しました。それは : 草木を傷つけると波逸提罪(pācittiya)になる、というものです。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます。Idaṁ me puññaṁ nibbānassa paccayo hotu)。