人々は皆、自分がアニキまたはアネキになって、他人の面倒を
見ようとしたがる。
しかし、ある種の人々は、自分の慈悲の心を発揮して、弱者を
保護する事ができるのに、他人の意見を聞くのが嫌い、という
事がある。
ある種の人々は、我慢(傲慢)の為に、長い間、強烈な無知
(智慧のない事)の中にいる。そういう人々は、自己の見解(偏見)
の蛸壺の中に落ちたならば、どのような事柄についても自分の考え
を持ち、エゴによる、色々な仮説を設定する。
そして、エゴによる仮説が突破できない時(=自己のエゴに固執
して、エゴを撤回出来ない時)、後はひたすら、自分のエゴを
押し通そうとする。
我慢(傲慢)による心の壁が、他人を受け入れなくしており、
その人の見解は、永遠に、自分の理解できる(偏見の)範囲の
ものを越える事がない。
我慢(傲慢)の人は、他人の、自分に対する提案を受け入れる
ことができず、意見や提案をすると、そのことで自分は傷つけ
られた、と言い、騷ぐ。
長年の強烈な自我の観念(の保持)が、強烈で暴力的な個性を
育ててしまう。
我々は、自分の周りを見渡してみて、男性でも女性でも、
一日中怒っている人がいたら、それは傲慢な人間だ、と言える。
傲慢と短気は、一枚の紙の表裏をなしている。というのも、
彼は他人に対して、決して満足する事がないのであるから。
(つづく)
(台湾高雄文殊講堂 慧律法師著
翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)