若い時に、一休禅師の伝記を読んでも、よく理解できなかっ
たが、最近、彼の道歌集を読んで、ちょっと感動している
(私にも、分かるようになった!亀の甲より年の功!!)。
彼は反骨の禅者だ。
権力や権威、組織なんぞ、認めないのだ。仏陀は四姓平等を
説いたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
仏教を含む色々な宗教は、年を経て古くなったものは形骸化し、
腐敗もする(だからと言って、新興宗教がよい、ともいえないが)。
そしてやがては、権力とか権威とか利権とか、一番腐敗しやすい
ものと結託してしまうのだ(キリスト教の歴史を見よ)。
一休禅師は、<父母未生の本来の面目>を悟っていた。
故に、概念・妄想に囚われないから、発言も行動も自由闊達。
森女と生活を共にしていたのは、戒律違反と言えば言えるが、
権力・組織と結託して甘い汁を吸っている高僧を嘲笑い、組織
に属さず、ただ一人孤高に生きた一休禅師には、森女と生活する
事自体が、腐った仏教界(日本の仏教界はこっそり妻をめとる
僧侶がいたし、男色もあったから)への挑戦状だったのかも
知れない(日本の仏教界は性の問題を解決しえていない。
南伝のテラワーダはどうか?テラワーダでは、女性は比丘の居住地域に
近づいてはいけないので、比丘にしか、実体は分からない)。
一休禅師のトンチ話に「このハシ渡ってはならぬ」「では
真ん中を通ります」というのがあるが、これは只のトンチ話
ではなく、庶民も侍も本来平等であって、誰もが橋の真ん中を
通る権利がある、という主張を含んでいる。
<一休さんのトンチ話>は、子供向けに骨抜きになっている部分
があるが、一休禅師は禅者の矜持をかけて、権力や権威に
反抗したからこそ、世に名を遺したのだと思う。
今、一休禅師の道歌を読むのが日課、私の楽しみである。
(ちなみに宗教は自己責任、自分一人でやるもの。勧誘など
愚の骨頂だと、私は思っとります)。