善なる因縁がいまだ改変されていない時、通常、人の習性としては、
道徳に執着して、善行によって安心を得ようとする事が多い。
一旦因縁が改変されたら、執着によって無常なる苦と無我を感じる
事が分かるようになり、道徳もまた決して究極的な依拠処ではない、
ということを了解し、縁起のような勝義諦を見つけて、苦痛の感覚
を抜き去る必要があると考える。
心は、徐々に、「私」「私のもの」、善悪、良し悪し、苦楽など
を超越して、二度と苦痛を感じないようになる。
縁起をば、生まれ生まれて、世々、流転する自我に当てはめて説明
するならば、縁起の法則に違反するだけでなく、仏陀の説法の法則
ーー人類をして、徹底的に、いかなる自我をも止滅させ、超越させ
る事にも違反する。
縁起は、道徳とは無関係である。というのも、道徳は、いかなる状
況の下でも、自我を根拠としており、常見の中に存しているから
である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)