ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー18
4)縁起の言語の中には、自我の結生識というものはない。
故に、縁起の中の識とは、6識を指す(6根が6塵と接触
して生じるもの)。
しかし、もしあなたが、6識を結生識と見なすなら、それ
でもよい。しかしながら、6識自体を、そのように解釈し
たならば、名色、六入、触、受が生じ、最後には有と生が
生まれる。
仏陀は識を結生識である、とは言っていない。
というのも、仏陀は、我々に、通常の感官の6識をしっかり
見極めるようにと教えたからである。いわゆる結生識は、
後期の論著の中に見られるもので、それらは、知らず知らず
の内に、常見を仏教の中に持ち込んだのである。
それは仏教の害虫となり、ゆっくりと仏陀を侵食し、仏教全
体を瓦解させてしまった。
実際、我々には、通常の感官の識または縁起(無明の縁によって
行あり)によって引き起こされる識があればよく、結生識は
必要ない。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)