9)縁起とは、刹那の現象であり、恒常ではない。故に、
所謂、(縁起で用いられている)生または死(という言葉)
は、普通の人の日常生活の内で縁起が、流転・捻転する
(という現象の)中において、説明されなければならない。
前述した所の、根境が接触する時、正念を失う、という事
である。
我々は、貪欲、瞋恚、痴(無知)が生起する時、すでに自我
も誕生しており、これが毎回の「一生」と数える事ができる
事を、簡単に知る事ができる。
「今生」とか「来生」とかの言葉が好きな人がいるとして、
それを<刹那の生>であると考えるなら、私も賛成できる。
というのも、それであるならば、真理に切り込みーー
<今・ここ>において、即刻、活用する事が出来るから。
しかし、もし、日常用語で言われるところの生(母胎から生
まれ出る事)として理解するなら、それはもはや縁起の意味
から外れ、我々が縁起を理解するのに、困難をもたらす事になる。
我々は眼前で見る事のできる「来生」を重視し、(その苦を)
乗り越えたいという気持ちがあるならば、それは必ず実践できる
のであり、どこへ生まれるか分からない三世輪廻の「来世」より
数倍コントロールしやすいのである。
10)ただ単に理論的に研究する縁起は哲学であって、あまり役に
立つものではない。いや、ほとんど役に立たない!
本当の縁起とは、一種の修行であり、それは<苦>の発生を止める事
が出来る。すなわち、根と境が接触する時、6根すべてに覚醒を保つ
こと。この原則をもって6根を守り、漏(asava)を生じさせない。
これこそが、円満なる縁起の還・滅である。これをあなたが「縁起」
と称さなくても、実際には同じ事であり、この種の縁起を正道
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)