ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー23
仏陀が縁起を教え、指導したのは、さらに徹底的に我見(自己中心的
なものの見方、私はある、という考え)を取り除くため、また、自我
を取り除くためであることは、はっきりしている。
5蘊を一つ一つ分析して「無我」だとみなすだけでは、(悟りに到達
するには)まだ不足しており、ゆえに、縁起の現象をしっかりと
見極める必要があるのである。
一つ一つの蘊は「此れ有る故に彼有る」「此れ滅する故、彼滅す」の
因果法則の下、縁起の11種類の状況が円満に生起する時のみ
出現する。
この事は、我々に、さらに進んで「無我」とは何か、惑(煩悩)
とは何か、業とは何か、異熟とは何か、または、因から果まで
の過程全体の現象は、すべて「無我」である事を、知らしめて
くれる。
ただ「五蘊無我」と聞くだけで、縁起の現象を見極める事が
できないのならば、可笑しな誤解が生じるだけである。
パーリ経典の中で述べられているように、ある比丘が仏陀に
では、無我が作った業は誰が受け取るのですか?」
ここの部分を見るだけでも、ただ「五蘊無我」と聞いた事が
あるだけで、「無我」について、一知半解である事が分かる。
業の作り手と業報の話になると、必ず「私」が、苦または楽
の業報を受け取っているのだと、誤解する。
そして奇妙な状況が出現する事になる。
もし、人が縁起の現象を、徹底的に見極める事ができたならば、
この種の疑問を持つことはない。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)