南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー23

仏陀が縁起を教え、指導したのは、さらに徹底的に我見(自己中心的

なものの見方、私はある、という考え)を取り除くため、また、自我

を取り除くためであることは、はっきりしている。

5蘊を一つ一つ分析して「無我」だとみなすだけでは、(悟りに到達

するには)まだ不足しており、ゆえに、縁起の現象をしっかりと

見極める必要があるのである。

一つ一つの蘊は「此れ有る故に彼有る」「此れ滅する故、彼滅す」の

因果法則の下、縁起の11種類の状況が円満に生起する時のみ

出現する。

この事は、我々に、さらに進んで「無我」とは何か、惑(煩悩)

とは何か、業とは何か、異熟とは何か、または、因から果まで

の過程全体の現象は、すべて「無我」である事を、知らしめて

くれる。

ただ「五蘊無我」と聞くだけで、縁起の現象を見極める事が

できないのならば、可笑しな誤解が生じるだけである。

パーリ経典の中で述べられているように、ある比丘が仏陀

こう言った:「尊敬する仏陀五蘊は無我だと聞きました。

では、無我が作った業は誰が受け取るのですか?」

ここの部分を見るだけでも、ただ「五蘊無我」と聞いた事が

あるだけで、「無我」について、一知半解である事が分かる。

業の作り手と業報の話になると、必ず「私」が、苦または楽

の業報を受け取っているのだと、誤解する。

そして奇妙な状況が出現する事になる。

もし、人が縁起の現象を、徹底的に見極める事ができたならば、

この種の疑問を持つことはない。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)