ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー24
もし、縁起の法則の中の、刹那なる現象を徹底的に見通す事が
できるならば、上述の経典の中の物語のような<自我がある>
などという話は出てこない。
縁起の流れの中で、たとえば、今生、来世、悪道(地獄、餓鬼、
畜生、阿修羅)、人、天神及び梵天、または仏、法、僧が出て
くる事はありえる。
これは福業、非福業と不動業の造作力によって駆使されたも
のである。もしその造作力が、受または生を成功裏に発生せ
しめたならば、そしてまた、心の内の煩悩が、火のように
燃え盛っているのならば、この時、地獄というものが発生する。
《相応部》の第三熱煩経の中で、仏陀が言う所の「大熱地獄」は、
その他の場所では「6触処に属する地獄」と呼ばれ、これこそが
真実の地獄であり、常見の人が信じるところの地底の地獄よりも
尚恐ろしいものなのである。
ある経の下段の部分に、天国とは「6触処に属する天」と書かれて
いるが、これこそが本当の天国であり、常見を持つ人が信じる天空
上にある天国よりは、さらに真実なのである。
もし我々の感受または(内心の)苦しみが恐怖に満ちたもので
あれば、それは阿修羅なのである。
もし、飢餓で息も絶え絶えなのであれば、それは餓鬼である。
愚かとは畜生のことであり、苦楽がまじりあっているのが
人類である。各種各様式の色々な階層の趣を享受しているの
が天神である。色定または無色定の楽受と非苦非楽受を
味わっているのならば、階層の異なる梵天であり、これらは、
死後お棺に入ってから味わう境界よりも真実である。
これらの誤解は、仏教の化生(opapātika)に関しての、
歪曲された観念から生じているものである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)