Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)-27

皆様に注意して頂きたいのは、世俗諦の正見において、自我はある

と説明される事はあっても、勝義諦の正見では、自我というものは

ない、と説かれている事である。

自我なんて、どこにあるだろうか?

これら(上述の二種類の正見)は、仏教の正見といえるが、日常用語

で説かれるものは、通常の一般人に対する道徳的な説明であって、

法による言語で説かれるものは、目に少しの塵しかない人々のために

説かれるものである。

目に少しの塵しかない人々に、如実の真理を知らしめ、聖者となるよ

うにするため、仏陀はいつも、二種類の言語によって説法をしていた

のである。

縁起は、倫理道徳の範疇に属さない、無上の勝義諦であり、

それは、一生また一生と、人生の中を流転していく主体など

ないのだ、という事を言っており、また、縁起の一度の運行を、

三世に分けて説明する必要もない、という事でもある。

我々は、縁起を用いて、三世の輪廻を説明しようとする意図とは

なにか?について、議論しなければならない。

縁起の一度の運行を、あえて三世に貫通させる説の、その起源の

部分は、覚音の《清浄道論》であり、他には、若干の、出処が

分からない部分も、ある。

私自身は、覚音を批判するという意図はなく、ただ、正しい方法で、

相互に学び合う事を通して、仏教と仏陀の教えた縁起を、

正しく実践したいという事であり、これこそが有益な実践だ、

と言える。

我々は、仏陀の教えと異なる解釈に対して不満を持っているが、

他者を批判したいのではなく、ただ、原始パーリ経典の経文の中の、

縁起に関する理論をあらためて研究、議論し、一人一人が自分で

理解できるようになるか、または(縁起というものが)一体どうい

う事なのかを、皆さんに理解し頂きたいだけであって、私または

他の誰かを信じる必要は、まったくないのである。

誰かが言っているからとか、言い伝えであるからというだけで

信じるならば、それは《カラマ経》の精神に反している事になる。

盲目的に《カラマ経》に反する行為をするならば、人として足りない

所がある、と言われても仕方がない。

我々は、「法眼」をもって、問題を考察、判断する道具と

しなければならない。

私が覚音を評論するならば、覚音が書いた《清浄道論》は、

その以前にすでにあった《解脱道論》に、比喩と注釈と評論を

加えたもので、そのため、状況は却って悪くなったのである(と考える)。

私がここで言いたいのは、仏陀を愛する事は、誰か他人を愛するより

もっと大事であり、我々は、仏陀が常々説明していた縁起について、

再度、注意を払わなければならない、という事である。

たとえ、この事がどれほど困難であっても、仏陀の開示した縁起が、

衆生に本当の利益をもたらすよう、私はいかほどでも、

犠牲を払う覚悟がある。

眠気眼で事なかれ主義で、(縁起を)お互いに議論するためだけに

利用するのであれば、いかなる利益も、もたらさないのである。

覚音の論述は、仏陀のパーリ経典《カラマ経》の原理とは合

わないと考えているので、私は蟻が木を揺らすような、

身の程知らずだと言われようとも、己の智慧でもっ

て、覚音を論評してみたいと思っている。

人は私を嗤うかもしれないが、私は自分自身のこの仕事に

法の喜びを感じている。というのも、このようにすれば、

正しい理論を縁起の教育の中に持ち込む事ができる

のであるから。

縁起は仏陀の教えの核心であり、私が最初に説明した《長部》

などの経文に関する解釈を、考察する必要があるのである。

(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)