ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー38
(中略)
縁起の苦は取に依る~~
縁起の苦は、取を助縁として生起する。たとえば、農夫が
炎天下の田畑で仕事をしていて、もし<取>がないならば、
「おお、暑いなぁ」と言うものの、この種の「非常に暑い」
という感受は、ただの自然的に発生する苦に過ぎない。
これは<縁起の苦>ではない。
縁起の苦というのは、必ず<取>があり、それから「私」
の発生までが、含まれなければならない。
もし、農夫が焦燥感を感じ、心の中で「私は農夫だ。これは
私の業報だ。故に、このように汗水たらして、仕事をしなけ
ればならないのだ」と思い、気持ちが萎えてしまうとしたら、
これが縁起による、苦なのだと言える。
背中に灼熱を感じた場合、それは純粋に感覚だけであって、
ただそれを熱さとして感じているに過ぎず、その時点で
<取>がないならば、次に進んで「私」という感覚は
出てこない。
こういう状況、これは<縁起の苦>とは言わない。
皆さんには、しっかり注意を払って、この二種類の苦の違いを
分析して頂きたい。もし<取>がある時、苦は完全な形で生起する。
これが縁起の苦である。
もし、あなたがナイフで手に怪我をしたとして、痛いと思うだけで、
<取>がないならば、これは自然な苦であって、縁起の苦ではない。
二つをごちゃまぜにしてはならない!
縁起の苦は、無明から始まり、行、識、名色、六入、触、受、愛、
取、有、生(老病死)の一回で完結する流転であり、これをもって、
<縁起の苦>というのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)