生あるがために老死あり、有あるがために生あり、取あるがために
有あり、愛あるがために取あり、受あるがために愛あり、
触あるがために受あり、六入あるがために触あり、名色あるがために
六入あり、識あるがために名色あり、行あるがために識あり、
無明あるがために行ある(と私は、考察した)。
その後、もう一つ別の方法で、再び考察した。
無明を縁として行があり、行を縁として識があり、識を縁
として名色あり、名色を縁として六入があり、六入を縁
として触があり、触を縁として受があり、受を縁として
愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、
有を縁として生があり、生を縁として老い、病、死、憂い、
悲、悩、苦、純なる大苦の聚が集する。
比丘たちよ!
世の人々がいままでに聞いた事のない、純なる大苦の聚が
集する事に関する智慧、知見、法眼、光明が、
私の心の中に湧出しました。(つづく)
訳者コメント:冒頭に<生あるがために>という言葉が出てきます。
これは<生きていく、己の人生>という意味ではなく、<生まれる>
という意味です(日本では「『仏陀は、生きていくのは苦である』と
言った」と解説される事がありますが、それは誤訳)。
ブッダダーサは、生を、母胎から生まれる事でなく、<自(我)
意識が生まれる事>という風に解釈しています。翻訳、字解は
難しいですね。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)