縁起の中に自我は存在しない~~
今、我々は一つ、非常に重要な事柄を検討してみようーー間違って
解釈された縁起は、仏教に属さないだけでなく、何らの利益もなく、
正直に言うと、弊害さえあるものである。
縁起を、三世を貫通するものとして解釈するのは間違いであり、
決してパーリ経典の原則に立っておらず、経典の文字(文脈)、
または意義から言っても、やはり間違っているのである。
私がずっと言い続けている事は、経文に従えば、仏陀の言う縁起とは、
お互いがお互いに依存しながら相続しているもので、その中には、
何か別のものが挟まる、という事はない(という事)。
縁起は無明から始まり、継続・発展して最後は苦の受となるが、
その間になんらのものも、挟まる事はなく、何ものかを挟めば、
経文(に書かれた内容)の原則に、違反した事になる。
仏陀の教えた意図(意味内容)からみて、我々は非常に簡単に、
三世を貫通する縁起説は間違っている、という事が見いだせる。
仏陀が縁起を教えたのは、邪見を払うためであり、人々の
「我(私)」「人」「衆生」に対する執着を突き崩すため
であった。
そういう目的があって、縁起とは捻転し、相互依存しながら
相続する11種類の状況の連鎖であると教えたが、
その中に、自我の存在する余地は、ないのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)