Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー59

現代において、縁起をば、同一の主体が三世を貫通している、

と説明する人がいる。

一人の人間は、自分の過去世の煩悩を、今生のある時間に、

業の報いとして受け取る事になり、そして、今生の業の報いは、

新しい煩悩を生じさしめ、それは来世において、業報として

受け取らなければならない、と言う。

縁起がこのような形で解説されると、それは自我、霊魂、衆生

又は人が輪廻流転しているのだ、という説に変節し、漁師の子

であったテッィサ比丘が陥った邪見になってしまう。

仏陀が縁起を教えたのは、自我はあるという考えに、人々が

陥らないようにという事であったのに、我々はそれに反して、

自我がある、などと言いだしている。

仏陀はすでに、非常にはっきりと、(無我の)原理を説明して

いるのに、我々はなぜか、また、わざわざ、自我はあるのだ、

という新しい解釈を創造しているのだ。

こういう事で、我々は「四大教法」をもって、判断の基準

としなければならない。

それは我々に、自我の存在を前提にして縁起を解釈する

ならば、それは間違っている、というのも、仏陀「無我」

教えたのだからということを、指し示してくれる。

故に、あなたが、縁起の中に自我はない、という認識を

得たならば、それが正解で、もしあなたが、自我があると

思ったり、縁起は三世を貫通するのだと思ったりするならば、

それは誤解であり、この種の誤解は、人々に「我(私)」と

いう観念を生起させる、間違った教えである(と言える)。

もし、あなたが、パーリ経典の文脈の原則に従って解釈する

ならば、縁起とは、流転・捻転し、相互依存するものである

ことが分かる。

パーリ経典に何ら手を加えることをやめ、自我を生じさせる

解釈をやめる。これが正解である。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)