現代において、縁起をば、同一の主体が三世を貫通している、
と説明する人がいる。
一人の人間は、自分の過去世の煩悩を、今生のある時間に、
業の報いとして受け取る事になり、そして、今生の業の報いは、
新しい煩悩を生じさしめ、それは来世において、業報として
受け取らなければならない、と言う。
縁起がこのような形で解説されると、それは自我、霊魂、衆生
又は人が輪廻流転しているのだ、という説に変節し、漁師の子
であったテッィサ比丘が陥った邪見になってしまう。
仏陀が縁起を教えたのは、自我はあるという考えに、人々が
陥らないようにという事であったのに、我々はそれに反して、
自我がある、などと言いだしている。
仏陀はすでに、非常にはっきりと、(無我の)原理を説明して
いるのに、我々はなぜか、また、わざわざ、自我はあるのだ、
という新しい解釈を創造しているのだ。
こういう事で、我々は「四大教法」をもって、判断の基準
としなければならない。
それは我々に、自我の存在を前提にして縁起を解釈する
教えたのだからということを、指し示してくれる。
故に、あなたが、縁起の中に自我はない、という認識を
得たならば、それが正解で、もしあなたが、自我があると
思ったり、縁起は三世を貫通するのだと思ったりするならば、
それは誤解であり、この種の誤解は、人々に「我(私)」と
いう観念を生起させる、間違った教えである(と言える)。
もし、あなたが、パーリ経典の文脈の原則に従って解釈する
ならば、縁起とは、流転・捻転し、相互依存するものである
ことが分かる。
パーリ経典に何ら手を加えることをやめ、自我を生じさせる
解釈をやめる。これが正解である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)