私の、この種の、伝統を打破する思想は、原始パーリ経典の
中に、証拠を見つける事ができる。すなわち、《相応部》
因縁篇食品第一に記載されている所の、四食(注1):
段食(kabaḷiṅkāhāra)、触食(phassāhāra)、
思食(mano-sañcetanāhara)、識食(viññāṇahāra)である。
仏陀は、四食は、生まれた「已生」を生存させる役割を持ち、
かつ「求生」を滋養する、と言った。
仏陀は四食について解説する時、彼は比喩をもちいて、
四食は生きている一人一人の人間の中に、毎日生じている
事柄である、と言った。すなわち、どのような時も、
我々は「已生」と「求生」の衆生なのである。
四食の効能は、「求生」を維持し、滋養する事であるが、
その上に又、その特別な作用として、「已生」(すでに
出生した衆生)を維持し、支える事にある。
上記の事を引用したのは、皆に知ってもらいたい事が
あるからである:「已生」と「求生」は、日常用語と
法の言語において、二種類の意味を持っている事。
そして、最も重要な事、皆が知っておかねばならない事と
は、すなわち、どちらの意義が、我々仏法修行者にとって、
直接の利益があるか、我々の掌握可能の状態にあるか、
という事、である。この事は、ただ、法の言語で解釈する事
によってしか、上述の効用を得る事ができない、という事
である。
驚いた事に、一人一人の人間は、平常の時で、煩悩のない時
は、「求生」の状態にあるという事。一旦煩悩を有して、
愛、取が生じた時、「已生」に変化する。
故に、生死の問題から完全に解脱(=脱出)していない人は、
同じ一人の人間の中で、ある時は「求生」で、次の瞬間には
「已生」になり・・・という事を、繰り返しているのである。
我々は、すべての「已生」と「求生」を、止息させねば
ならない。そのためには、縁起に従って、正しく、
修行しなければならない。自我はあってはならず、
自我を発動させてはならない。
また、生まれ出るのを待機している「求生」を、
生起させてもならない。「已生」にも「求生」にも
なってはならない。そのためには、四食を完全に、
止息させねばならない。四食に意義を持たせたり、
造作する機能を与えてはならない。そのためには、
この種の縁起の理論を知って、受用する事である。
以上が、日常用語と法の言語で解説した「求生」
と「已生」である。
(注1)《漢訳南伝大蔵経》に依る。「有此等四食、
使有情或衆生存在、摂受為生」
(つづく)
訳者コメント:アーチャン・チャーは生前よく
「心に食べ物を与えてはならない」「心を餓死
させろ」と言っていたそうです。「心の食べ物」
とは<四食>の事だったのですね。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)