心の中に無生物~たとえば鉢、袈裟などに対する貪念が生じた時、
二種類の方法によって、無生物に対する執着を思惟し、それによって
禅修行者は、貪念を駆逐する。
この二種類の思惟とは、主宰者はいない、という思惟と、無常の
思惟である。
《念処経Satipaṭṭhāna Sutta》の註疏の中で、覚支の説明をして
いる部分に、この二種類の思惟に関しての解説が出てくる。
「この鉢は、徐々に退色し、古くなり、亀裂が入り、穴が開き、
最後には割れるか、又は、何かにぶつかって粉々になるだろう。
この袈裟は退色するし、破れるし、後には雑巾になるし、最後には
捨て去るしかないものである。もし、これらの品々に主宰者がいる
ならば、主宰者は、それらが決して破壊されないようにする。
このように、品物には主宰者がいない、という思惟をしなければ
ならない。また、これらの品々は、長く持ち続ける事は出来ず、
短時間で破壊が起こると考え、無常の思惟を起こすこと。」
このように、貪念を引き起こす対象に対して、無常の思惟を
起こすのは、ここでいう「其他対象」に相当する。
(mettā-bhāvanā)が「其他対象」である。
心の中に無生物に対する瞋念が起こる時、四大分別観が「其他対象」
である。
《降伏瞋恨経》、《鋸子譬喩経》などの開示に基づいて、慈心観を
修行するべきである。修行者が慈心観を修行する時、瞋恚と怨恨は
跡形もなくなくなる。
故に、瞋念を引き起こす対象からみて、慈心観は「其他対象」である。
(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)
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