「応当努力忘掉這些念頭、不応継続注意它們」
というこの言葉について、註疏は以下のように、解説している:
(+邪念を)思い返してはならない。これらの邪悪な考えを
思ってはいけない。(+その為に)その他の事柄に従事する事。
人が、ある種の事柄を見たくないと思った時、彼は目を閉じる;
同様の理屈で、比丘がある種の禅の法門を繰り返し修行する時に、
邪悪な考えが心中に生起した場合、彼は他の事柄で(+心を)
忙しくするべきだ。
このようにすれば、彼は、心の中の邪悪な考えを取り除くこと
ができる。邪悪な考えを取り除いたなら、彼は、戻ってきて
座禅・瞑想し、自分がやり通すと決めた法門を引き続き修行し、
当該の法門の予備相に、専注しなければならない。
それでも万一、悪念を取り除くことができないならば、以前覚えた
仏法の解説文を高らかに称える。万一、このようにその他の事柄に
埋没しても、悪念を未だ取り除くことができないとき、もし、
彼の鞄の中に仏陀と仏陀の功徳について書いた小冊子があるならば、
彼はそれを取り出して読むのが良い。
このようにして、心を(悪念以外の)その他の事柄に忙しく
埋没させるのである。(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)