註疏では、上述の文章(No.70 )を、結論の部分である、
としている。
ちょうど弓術を教える先生のように、外国から来た王子に五種類の
武器の使い方を教え、その後に、王子を激励して言う「国に帰って、
自国の統治権を掌握しなさい!」と。
彼は王子に、五種類の武器の運用の仕方を教え、そして言う「もし、
強盗が路上であなたに襲いかかったならば、弓矢を使いなさい。
もし、弓矢が無効であるとき、長い矛や宝剣を使いなさい。
そうすれば、その後で、強盗から逃げ出すことができます。」
王子は言われた通りに実行し、自分の母国へ帰り、統治権を得、
国を治める事の幸せの報を得た。
同様に、仏陀は比丘に五種類の(+修行の)方法を教え、比丘が
聖人の果位を証悟できるよう、増上心を育成するのを、激励した。
増上心を育成する事に努力する比丘は、禅の修行において、もし、
悪念を引き起こす対象が心の中に出現したならば、その他の対象に
注意を向ける、という教法に従って、彼は悪念を止める事ができるし、
かつ観禅の修行の後では、聖果を証悟することもできる。
もし、この方法では証悟することが出来ないとしても、悪念がもたらす
危険を思惟せよという教法によって、聖果を証悟することができる。
もし、この方法では証悟できないとしても、悪念を忘れ、悪念に注意を
向けないという教法によって、聖果を証悟することができる。
もし、この方法では証悟することができないとしても、悪念の源を
追跡調査するという教法によって、聖果を証悟することができる。
もし、この方法では証悟することができないとしても、強力に
(+自己の心を)制御するという教法によって、悪念を止め、観禅を
修行することによって、聖果を証悟することができる。
「該比丘就可以称得上是念頭的主人」という語句について、註疏は
以下のように解説している。
比丘就可以称得上とは、想いの転回する過程をコントロールすること
に巧みな人、想いの転回する過程をコントロールする事に精通してい
る人の事を、言う。
以前、彼は、自己がそうあって欲しいと思う想いを生起させ、そうあって
欲しくない想いは生起させない、という事ができなかった。
しかし今、彼は、自己の想いをコントロールする事に熟練したので、
(+自己の心の動き、即ち、)起心動念の主となる事ができるよう
になった。
この事を「他能使自己想要的念頭生起、使不想要的念頭不生起」と言う。
ここにおいて、彼は一切の貪愛を断じ、除いたのである。
上記のことから、心の中に如何なる邪悪な想いが生起しようとも、
あなたはこの経が教える五種類の方法によって、悪念を取り除かな
ければならない(+ことが知れる)。
このようにすれば、あなたは、悪業をなす事を避け、純粋に善業のみ実践
することができ、かつ、あなたの禅の修行は、日増しに成功を収めること
ができる。(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)