上述(No102)の《相応部・具偈品》の偈について、我々は、その本当
の意味を、知る必要がある。
仏陀がこの偈を教えた対象は、上等な根器を持つ人々であって、彼らは、
この一生の内に、修行に精進すれば、阿羅漢果を証悟し、一切の煩悩を
断ちきり、来世はない、という人々である。
もし、このような上等な根器の人が、阿羅漢果を証悟するために、
この一生において、真に、真剣に修行するならば、彼の精進力によって、
彼は阿羅漢になる事ができ、(+来世における)再生の可能性はなくなる。
布施の業力は、新しい命と新しい福報を造りだす。
この一生の中で、已に生死輪廻を断じた人には、来世はない。
すでに、新たに命を得る事が無く、そのため、(+来世において)
布施の福報を楽しむ事がないという彼にとって、布施は必ず必要な
ものである、という事はない。
これが、《相応部》の、この経の部分において、なぜ仏陀が、上等なる
根器の人の利益のために、戒定慧の解説に重きを置いたのか、
という理由である。
というのも、煩悩を断じ、取り除くという目的にとっては、三学は、
布施よりも、もっと重要であるからである。
仏陀は、かつて一度も、布施波羅蜜を修習しなくてもよい、などと
言った事はない。
この一生の中で、阿羅漢にならない人は、引き続き輪廻の中で生死を
繰り返さなければならない。輪廻する時、今世で布施をしていないな
らば、彼らが良い所へ生まれ変わることは、非常に困難である。
たとえ彼らが善道に生まれ変わることができても、彼らは財物に欠けて
ており、善を行うのが難しくなる(あなたは、そういうことであるならば、
彼らは戒定慧の修習をすればよい、と言うかもしれない。しかし、これは、
言うが易し、行うが難し、なのである。実際は、過去世における布施の
善報の支えの下でしか、戒定慧の三学の修習を成功させることができない)。
故に、布施を修習することは、未だ娑婆世界で輪廻しなければならない人に
とっては、非常に重要なのである。
この気の遠くなるほどの長い旅の途中で、十分な旅費、すなわち、
布施を具備した者だけが、より良い終点に到達する事ができるのである。
過去の布施の善報によって、財物を擁した時、我々は、自己の願い通りに、
善を修することができるのである。(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)