南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-2

タイ語による序文

《無我》。この本は、ブッダダーサ(+またブッダタート、仏使とも言う。以下同様)尊者の、最も人を感動させる文学的著作のうちの一冊である。

本書は、1939年に執筆され、初刊は、法施社の出版する《仏教雑誌》の季刊の中で発表されたもので、その後すぐに、《仏使尊者長編著作集》の中に収録され、重版が行われた。

しかし、本書は、受けるべき相応の尊重をされることがなかったため、ブッダダーサ尊者の早期の著作を保護するために、タイの法隆解行基金会は、再度の編集を待たずに、二度目の発行を行った。

基金会は同時に《布施》《一般人の仏教認識》《仏法の修持と教義の宣揚》などの書物も出版して、読者に提供したが、これらの著書は、彼が「仏使比丘」に改名する前に書かれた、早期の作品である。

本書の中で語られる仏法の中の「無我」の教義は、周知のように、仏教の基本的で重要な教義であり、それは仏教をして、ほかの宗教(特にインド・ヒンズー教などの有神論系の宗教)と比較するとき、ことさらその殊勝さを発揮するものである。

ただ、インド・ヒンズー教の宗教が澎湃として発展し、かつ改革がなされ、仏教の教義と融合し、また、吸収したため、最後には、仏教はその発生の地――インドから押し出されてしまった。

また、仏教徒自身が、「無我」の教義に対する認識と理解が不確かで、多くの宗教師が「業」と「涅槃」の解釈をするときに、インド・ヒンズー教の教義を仏教の教えと混同し、そのために大衆を間違った方向へ指導し、その厳重な結果、大部分のタイの仏教徒は、仏教への誤解をもつようになり、かつ間違った観点に執着することとなった。

例えば、ある禅センターは、人に、注意力を一個の水晶玉に集中させるか、または心の中で仏像を観想するよう指導しており、かつ、禅定の境地を涅槃の証悟であると誤解しているのである。

また他には、ある種の人々は涅槃を「自我」と定義している。というのも、それは恒久であり、常楽であるように、見えるがために。

しかし、これらの観点は、仏教の「諸法無我(有為法と無為法を含む。後者は涅槃を指す)」の教理に違反している事は、疑いの余地がない。(+ )(= )訳者。

(つづく)

ブッダダーサ尊者「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pannay-adhika Sayalay>