如何にして智慧波羅蜜を修習するのか?
智慧の光が、愚痴(=愚かさと無知)の
暗黒とは共存できないことから、智慧
波羅蜜を修習する菩薩は、愚痴に落ち込む
原因を避ける。
それはたとえば、善法に反感を覚える
(arati)、懈怠、昏沈(正念のない事)
のまま手を伸ばす等で、反対に、更なる
広範な智慧、各種のジャーナ等を獲得する
ために尽力する。
智慧には三種類ある:
一、聞所成慧(sutamaya paññā):
二、思所成慧(cintāmaya paññā):
三、修所成慧(bhāvanāmaya paññā)。
一、聞所成慧
(聞諦とも言われる)聞所成慧を成熟
させるために、菩薩は方法善巧智を基礎
として、正念、精進と智慧を具備して、
細心に、読み、聞き、学び、覚え、問い、
そして分析と研究をすることによって、
聞所成慧を育成する。
聞所成慧の全体的な構成は以下の通り:
(一)五蘊、12処、18界、四聖諦、22根、
12因縁、四念処などによって構成される
37菩提分、及び善悪などによって設定され
各種の順序。
(二)指弾されることのない、衆生にとって
安楽と利益と幸福を齎すことのできる
世間的な知識。かくのごとくに、菩薩
は聞所成慧を育成して智者になり、
自己を成就し、また、他人のために智慧を
確立する。
同様に、衆生に奉仕する為、菩薩は
その場で即刻適切に利用できる智慧を
育成するが、それはすなわち、方法善巧智
(=方便)である。
この種の智慧を運用して、菩薩は人々と
交流する時、益になる要素と破壊に導く
要素とを明確に分別する。
二、思所成慧
同様に、菩薩は、五蘊などの究極法を深く
省察することを通して、思所成慧を育成
する。(細心に読み、聞き、学び、五蘊
などの諸々の究極法を覚えることを、
思所成慧という。先に思考し、その後に、
すでに読んだもの、聞いたもの、学んだもの
及びすでに覚えたものに関する、諸々の
究極法を省察するのが、思所成慧である。)
三、修所成慧
同様に、五蘊などの究極法の特相(=特徴)
と共相を徹底的に理解して、俗諦の知識を
確立した後、菩薩は前に述べた部分の修
所成慧(禅修を通して自ら体験・証悟した
智慧)を確立する為、禅の修習をする。
それはすなわち、前九つの観智、たとえば、
有為法の無常、苦、無我を観察する思惟智
である。
このように観智を修習し、菩薩は全面的に、
身体の外および身体の内部の物質は、
すべてただ名色の現象にすぎないことを
観る:
「これらの自然現象は、ただ名色にすぎず、
因縁によって生滅しているに過ぎない。
実際、造作する者はおらず、また被造作者
もいない。名色は生起すれば必ずや消失
するもので、故にそれは無常である。
それは不断に生滅しているがために、
苦である。
それはコントロールしがたいものであるから、
無我である。」
このように、内外の物質の実相を観照し、
彼はそれらへの執着を捨て、また他人が
そうできるように支援もする。
仏になる前、菩薩は大悲心によって、
を通して、衆生は三種類の菩提を成就する
ことができる)に入るよう手助けし、
または行道に入った人が成熟に到達する
よう支援する。
彼自身に関しては、菩薩は、ジャーナの
五自在と諸々の神通を得られるよう、
尽力する。
ジャーナと神通の定力の助けを借りて、
彼は智慧の最高峰に到達する。
(以上が智慧波羅蜜の修習の方法である)。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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訳者コメント:「無我」の定義は重層的で難しい。上記では、パオ・セヤドーは、無我=(諸々の縁起は)コントロールできない事、としている。ブッダダーサ尊者の著書では、無我=自我のないこと、としている。インド人がアナッターというとき、最初に思い浮かべるのはどの意味なのでしょうか?一度、インド人に聞いてみたい。
<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>