[有為法は、心身を通して認知できる現象]
有為法は、現象界に属し、我々は、目、
耳、鼻、舌、身体、意の六根によって
それらを認知することができるし、
心身を通して、それらと交流ができるし、
それらを研究することもできる。
この領域に属する「法」または事物は、
すべて虚妄・幻である。というのも、
それらは、多くの事物が集まって
できており、それらの形状の大小もまた
時間の経過とともに、不断に変化している
からである。
この種の現象を、我々は「有為法」と
呼んでおり、有為法とは、一種の現象で
あるといえる。
[無為法は、ただ智慧を基礎として、
認知する事ができる]
無為法は完全に有為法とは異なる。
それは物質に属さず、精神面にも属さず、
それをば、接触のみを通して、知ろうと
しても、知る事はできない。
それは、いかなる事物によっても
創造されたものではなく、時間とともに
変化することもなく、形状も大小もない。
故に、それを表象から測ったり、計算する
ことはできない。
唯一の方法は智慧であり、すなわち、
智慧を認識の基礎とするほかない。
我々が、心霊(ママ以下同様)は涅槃を
究極の対象としていると言っても、
またはすでに涅槃の本質を深く理解して
いると自認していても、我々は、心
(ママ以下同様)はなお、涅槃をどのような
形式の「自我」とも(+規定)
することはできない。
一たび人の心霊が明晰であるとき、
涅槃の実相を明らかに見ることが
できるが、しかし、他人に対して、
涅槃の様子を描写することはできない。
というのも、どのように言えばよいのか
わからないからである。
涅槃の味に至っては、これを何かの物と
みなして、たとえば、砂糖のようだと
言っても、全くの間違いになってしまう。
というのも、涅槃には味、色彩、形状、
または如何なる感知することのできる
性質をもっていないからである。
涅槃の味を味わったというのは、心霊が
完全に煩悩のないとき、またはいわゆる
涅槃の境地に到達した時、心の中に自然に
生じてくる一種の感覚である。
これはちょうど、我々が沐浴した後、
身体上のすべての汗と汚れを落とした時の
爽快感のようであるが、我々はこの種の
爽快感を清潔の味だとは言えない。
それはただただ清潔とは関係がある、
(+というだけである)。
というのも、清潔には何等の味もなく、
しかし、身体が清潔である時、自然に
清らかでさわやかな感覚が生じてくる。
涅槃に到達する事ーー完全に浄化された
心霊は、やはりこのようなものなのである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>