Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー18

[有為法は、心身を通して認知できる現象]

有為法は、現象界に属し、我々は、目、

耳、鼻、舌、身体、意の六根によって

それらを認知することができるし、

心身を通して、それらと交流ができるし、

それらを研究することもできる。

この領域に属する「法」または事物は、

すべて虚妄・幻である。というのも、

それらは、多くの事物が集まって

できており、それらの形状の大小もまた

時間の経過とともに、不断に変化している

からである。

この種の現象を、我々は「有為法」と

呼んでおり、有為法とは、一種の現象で

あるといえる。

[無為法は、ただ智慧を基礎として、

認知する事ができる]

無為法は完全に有為法とは異なる。

それは物質に属さず、精神面にも属さず、

それをば、接触のみを通して、知ろうと

しても、知る事はできない。

それは、いかなる事物によっても

創造されたものではなく、時間とともに

変化することもなく、形状も大小もない。

故に、それを表象から測ったり、計算する

ことはできない。

唯一の方法は智慧であり、すなわち、

智慧を認識の基礎とするほかない。

我々が、心霊(ママ以下同様)は涅槃を

究極の対象としていると言っても、

またはすでに涅槃の本質を深く理解して

いると自認していても、我々は、心

(ママ以下同様)はなお、涅槃をどのような

形式の「自我」とも(+規定)

することはできない。

一たび人の心霊が明晰であるとき、

涅槃の実相を明らかに見ることが

できるが、しかし、他人に対して、

涅槃の様子を描写することはできない。

というのも、どのように言えばよいのか

わからないからである。

涅槃の味に至っては、これを何かの物と

みなして、たとえば、砂糖のようだと

言っても、全くの間違いになってしまう。

というのも、涅槃には味、色彩、形状、

または如何なる感知することのできる

性質をもっていないからである。

涅槃の味を味わったというのは、心霊が

完全に煩悩のないとき、またはいわゆる

涅槃の境地に到達した時、心の中に自然に

生じてくる一種の感覚である。

これはちょうど、我々が沐浴した後、

身体上のすべての汗と汚れを落とした時の

爽快感のようであるが、我々はこの種の

爽快感を清潔の味だとは言えない。

それはただただ清潔とは関係がある、

(+というだけである)。

というのも、清潔には何等の味もなく、

しかし、身体が清潔である時、自然に

清らかでさわやかな感覚が生じてくる。

涅槃に到達する事ーー完全に浄化された

心霊は、やはりこのようなものなのである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>