「我執」を取り除いてはじめて解脱者と
なることができる~
上記のことから、我々は、真実世間の
衆生は、「自我(ママ)」の観念から離れる
ことができないことが分かる。
ゆえに、仏陀は、人々に罪悪を除き、
功徳をなすようにと、教えた。
仏陀は、また言っている:
「『自我』は『自我』の拠り所である」。
その意味は、
衆生は全員皆(+自我に)執着し、かつ
(+執着の対象として)自己の本質は、
その「自我」そのものだと見做し、
(+自我の)拠り所は、その「自我」自身
なのだと思いなしている・・・衆生が、
それとはまったく関係がなくなるまで
(すなわち、衆生が「自我」の執着から
解脱するまで)(+衆生はそう思い
続けるであろう)。
二度と再び「自我」に執着しないか、
または二度と「自我」に依存しないこと、
このような境地に到達した時に、
変化してやまない、かつ静かで平安で
安住した自然な本性だけが残る(+のだと
いうことが分かる)。
ある一人の人が、「自我」の執着から
解脱した時、言い換えれば、彼はすでに、
「自我」とは何かを確実に知った時、
「自我」を超越し、功徳をなし、犯罪を
犯す束縛から解放される。
このことを踏まえて、一般の人々は、
阿羅漢が功徳、罪悪と善悪を超越している
と言うが、それというのも、阿羅漢はすでに
「自我」の執着から解脱しているからである。
一人の、すでに我執を取り除いて、解脱した
人間には、いまだに「自我」というものが
存在しているだろうか?
それはあり得ない。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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訳者コメント:ブッダダーサ尊者の
上記の文章を読んでいると、しきりに
<アングリマーラ>が思い出されます。
彼は悟った暁に「私は人を殺したこと
がない」と言っている。なぜ過去の
悪事を無かった事にできるのか?
沈思黙考の価値あり。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>