Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー23

「我執」を取り除いてはじめて解脱者と

なることができる~

上記のことから、我々は、真実世間の

衆生は、「自我(ママ)」の観念から離れる

ことができないことが分かる。

ゆえに、仏陀は、人々に罪悪を除き、

功徳をなすようにと、教えた。

仏陀は、また言っている:

「『自我』は『自我』の拠り所である」。

その意味は、

衆生は全員皆(+自我に)執着し、かつ

(+執着の対象として)自己の本質は、

その「自我」そのものだと見做し、

(+自我の)拠り所は、その「自我」自身

なのだと思いなしている・・・衆生が、

それとはまったく関係がなくなるまで

(すなわち、衆生が「自我」の執着から

解脱するまで)(+衆生はそう思い

続けるであろう)。

二度と再び「自我」に執着しないか、

または二度と「自我」に依存しないこと、

このような境地に到達した時に、

変化してやまない、かつ静かで平安で

安住した自然な本性だけが残る(+のだと

いうことが分かる)。

ある一人の人が、「自我」の執着から

解脱した時、言い換えれば、彼はすでに、

「自我」とは何かを確実に知った時、

「自我」を超越し、功徳をなし、犯罪を

犯す束縛から解放される。

このことを踏まえて、一般の人々は、

阿羅漢が功徳、罪悪と善悪を超越している

と言うが、それというのも、阿羅漢はすでに

「自我」の執着から解脱しているからである。

一人の、すでに我執を取り除いて、解脱した

人間には、いまだに「自我」というものが

存在しているだろうか?

それはあり得ない。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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訳者コメント:ブッダダーサ尊者の

上記の文章を読んでいると、しきりに

アングリマーラ>が思い出されます。

彼は悟った暁に「私は人を殺したこと

がない」と言っている。なぜ過去の

悪事を無かった事にできるのか?

沈思黙考の価値あり。

ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>