ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー27
この派の観点では、行為または顕現した
事象以外、いかなるものも存在しない、
ということになる。
たとえば、動物を殺す事は、ただ単に
動物に刃物が突き刺さるだけであり、
動物が傷つき、または死亡しても、ただ
それだけの行為であり、比較的重い後果
(=のちの結果)としても、その動物の
肉を食物として食するだけであって、
しかし、どのようにしても、功徳はないし、
罪悪もない、という。
これは「無作見」(行為無効論)といい、
功徳の存在も、罪悪の存在も、否定する。
今日に至っても、この種の観点を保持
している人はいる。
たとえば、ある種の科学者は、物質の面
からしか物事を見ないで、かつ、宗教は
時代遅れだ、などと言っている。
彼らは多分知らないのであろ。
この種の観点は、すでに仏陀の時代には
存在していて、長らく仏法と対抗して
いたことを。
同じく「自我」を否定するが、すべての
事物は、完全にただの一個の物体、自然なる
個体であると言い、どのような人間で
あっても、いわゆる「自我」が善を行ったり、
悪をなしたりすることはない、と言う。
仏法と比べてみると、これは一つの極端な
観点である。
というのも、なおも「自我」に執着する人が
具有する功徳と罪業を否定するけれども、
この種の観点は、表面的には「自我」を
取り除いたように見えるだけなのである。
しかしながら、依然として、相当多くの
人々が、この種の観点を受け入れており、
その結果、富蘭那迦葉を著名な大師に
押し上げることとなった。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>