この種の観点は、一切の事物を否定し、
かつ、今世であろうが、来世であろうが、
いかなる事物も真実であるものはなく、
この世界事自体も存在しない、ただ元素
が反復して結合し、分離しているだけだ
と宣揚する。
この種の学説は、その信者にとっては、
気持ちが軽くなるものである。
というのも、彼らは自分から苦労をかって
出ないですむし、いかなるコントロールの
下にも、自己を束縛する必要がない。
事物は自然に発展し、どのようなことが
生じようとも、憂いたり、喜んだりする
必要がない。
この種の観点が、仏教と異なる点は、
仏教は、なお、事物の存在を受け入れている
ことである。人がいまだ執着と煩悩を
有している時、これらの事物は存在する。
(+故に)人は、己自身と他人に面倒を
齎さないために、己の行為を正さなければ
ならない。
心・身は、心・身が完全に消失するまで、
各種の造作の作者であり、受取人であり
続ける。
心身が完全に消失する時初めて、これら
の業と業報は、相関するその人物と共に
消失するのである。
上記の意味は、以下の通りである。
仏教は、通常の一般人、また伝統的に
当然と思われている事柄を否定しないし、
世の中の人々は、自分の考えを持っても
問題なく、かつ、自己の感じるところ、
知るところによって、何かをなすことも
問題ない。
これらは皆、凡俗の境地であり、凡俗を
超越した境地に到達したければ、それを
乗り越える必要があるのである。
阿耆多翅舎欽婆羅の観点は、「空無見」と
言われ、その意味は、この種の観点に
もとづけば、いかなる事物も存在しておらず、
すべての、我々が名前を付した事物は
存在していない、ということである。
この種の、すべての事物を否定する
「無我観」は、したいことを(+遠慮なく)
なそうとする人を、最も満足させる考えで
あり、もし、これが人をして怠惰にさせる
ことがないならば、己のしたい、
どのようなひどい事でも、できるようになる。
というのも、この種の観点は、人が死ねば
何も残らず、すべて終わりである、
と思っているからであり、故に、この種の
観点は、また「断滅見」(ucchedadiṭṭhi)、
または虚無主義ともいう。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>