この種の観点は、仏教とは異なる・・・両者
ともに、同じく元素に言及し、それを主題に
してはいるが。
仏教は、人々が、それ(=元素論)を
基礎にして、お互いに(+お互いを)尊重
するべきだという道徳的行為を受け入れる。
少なくとも(+人々に)執着があるとき、
仏教は、行為はただの元素間の通過、
元素間の行き来にすぎない、とは言わない。
ある人が、すでに執着をしなくなったとし
ても、善とか悪とかに規定されている行為
は、やはり善であり、または悪であると、
考える。
その人は、それらの行為に執着はしない
けれども、しかし、なおも、それらを人、
動物、作者、受取人とみなすし、または
これらの要素に影響を受ける者の
善的行為、悪の行為であると、考える。
これはちょうど、一輌の車を作るとき、
我々ははっきりと、車はそれぞれ異なる
元素によって組み立てられているが、
それらが齎す利益を深くは考えず、
我々は状況によって、それらを使い分ける。
しかし、我々の心の中では、それに
あまり執着することはなく、それだ、
あれだと愚昧に定義することもなく、
それが生き返るだとかと考えることもないし、
愛恋したり、愛しすぎて苦しみを
受けることもない(+ようなものである)。
(+上述の)この種の観念は、殺人を
好む人々を満足させる。
たとえば、強盗・匪賊たちは、お互いに
「殺人無罪」と言い合う。
というのも、彼らは、殺される人はいない、
すなわち、ただ元素が異なる場所に
移動させられただけなのだから、
と思うが故に。そのため、彼らは、
普段よりなお勇猛に悪事をなす。
インドのある種の武士集団は、大昔
から今日に至るまで、この種の観念を
持っている。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>