Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-34

この種の観点は、仏教とは異なる・・・両者

ともに、同じく元素に言及し、それを主題に

してはいるが。

仏教は、人々が、それ(=元素論)を

基礎にして、お互いに(+お互いを)尊重

するべきだという道徳的行為を受け入れる。

少なくとも(+人々に)執着があるとき、

仏教は、行為はただの元素間の通過、

元素間の行き来にすぎない、とは言わない。

ある人が、すでに執着をしなくなったとし

ても、善とか悪とかに規定されている行為

は、やはり善であり、または悪であると、

考える。

その人は、それらの行為に執着はしない

けれども、しかし、なおも、それらを人、

動物、作者、受取人とみなすし、または

これらの要素に影響を受ける者の

善的行為、悪の行為であると、考える。

これはちょうど、一輌の車を作るとき、

我々ははっきりと、車はそれぞれ異なる

元素によって組み立てられているが、

それらが齎す利益を深くは考えず、

我々は状況によって、それらを使い分ける。

しかし、我々の心の中では、それに

あまり執着することはなく、それだ、

あれだと愚昧に定義することもなく、

それが生き返るだとかと考えることもないし、

愛恋したり、愛しすぎて苦しみを

受けることもない(+ようなものである)。

(+上述の)この種の観念は、殺人を

好む人々を満足させる

たとえば、強盗・匪賊たちは、お互いに

「殺人無罪」と言い合う。

というのも、彼らは、殺される人はいない、

すなわち、ただ元素が異なる場所に

移動させられただけなのだから、

と思うが故に。そのため、彼らは、

普段よりなお勇猛に悪事をなす。

インドのある種の武士集団は、大昔

から今日に至るまで、この種の観念を

持っている。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>