以前、大阪で開催されていたチベット仏教講座(内容は、ミラレパの生涯の解説)に参加した時、講師の先生から「仏教書を日本語で読むのと、中国語で読むのと、どちらが分かり易いですか?」と質問を受けたことがあります。
私は即座に「中国語」と答えました。
これは私の母語が中国語だから、という意味ではなくて、私は日本生まれなので、何かを思考するには、日本語の方が楽なのですが、仏教書はなぜか中国語の方が、その趣旨が明快に表現できていて、私には納得しやすい、という意味です。
例えば禅宗でよく使われる「空」は、日本語では、長らく何のことか分からずにいたのですが、最近、それは現代中国語(白話文)なら「空掉」(動詞)と表現する、心の動作・作用に属する事柄なのではないか?と思うようになりました。
そういう風に理解し、実践してみると、仏陀の教えが、いやにしっくりくることに気が付いたのです。
たとえば、嫌なことを耳にして、気分が悪くなったとき、正念(サティ)でもって、耳根と意根を守り、同時に、その気分をご破算にする、すなわち、心を 心の 0ポイント に戻す、そろばんで言う所の、ご破算、空(からっぽ)、にする。
「空」とは、心を「空という状態に保つ」のでは
なくて(もちろん、長時間、心を空の状態に
保てれば、それに越したことはないのでしょう
が、無常で無我なる心の本性としては、それは
無理なのではないでしょうか?)、「空」とは、
実は、心を 0ポイントにリニューアルする、
空っぽにする、その作用、働きのことなの
ではないか?
心の、今・ここでの、生き生きとした正念と、
正念の次に続く、心の(束縛からの)解脱的
作用のことを、中国の禅僧はこう言っていた
に違いない。
「空掉吧!」
「解脱吧!」
「喫茶去!」
「空」は、その状態を指し示す名詞ではなく、
心の主人であるべき己が行う心の仕事、随所に
主となるべき己の心の仕事であって、
動詞だった!うん、納得。
(上記は、空の実践の話。壮大な、
空思想、空哲学は、また別の話)。