ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-37
実体(ママ、以下同様)のある無我観~
実体のある無我観については、阿羅邏迦羅と、
鬱多迦羅の観点の中に、見ることができる。
彼ら二人の無我観は、全くの間違いだとも
いえない。
彼らは、かつて、シッダッタ王子
(後の仏陀)の、開悟する前の先生
であった。
仏陀は、彼らの修行の境地は、他の外道
より高いと思った。
仏陀は開悟した後、「さて、誰にこのことを
教えたらよいのか?」と考え、真っ先に
この二人の苦行者の事を思い出した。
これは、彼らがすでに、苦痛から解脱できる
境地の、非常に近くにいることを意味して
いる。もし、仏陀の教えに接することが
できたならば、彼ら二人は、必ずや
即刻解脱できたであろう(+と思われる)。
しかし、不幸なことに、その時、二人は
すでにこの世を去っていたのである。
[阿羅邏迦羅、鬱多迦羅ーー心霊(ママ、以下同様)
が純潔な時、「自我」(ママ、以下同様)は
出現する]
この二人の苦行者の自我観と無我観は、
以下のように述べることができる:
心霊が、すでに究極的に純潔であるとき、
一種の、すでに最終的な極めつけの境地、
または極限的な感覚が生じる。
この種の感覚を持つ人を「了知辺際者」
(Khettaññū)という。
これは、一人一人が、到達することを
渇望する「自我」であり、また、すべての
苦痛の終点でもある。
心霊(ママ、以下同様)を究極的に浄化するために、
苦行者は、各種の規則を厳守することを
堅持する。
阿羅邏迦羅が修習していたのは「無所有
処定」(akincañ-ñāyatana-jhāna)で、
鬱多迦羅が修習していたのは「非想非非想
処定」(nevasaññānā sañayatana-jhāna)
である。
彼らのことを専門的に研究する書物の中で、
この二種類の修行方法は、詳細に説明が
されている。
本書では、ただ彼らの修行理論について
検討する。というのも、この種の理論が
あって初めて、この種の修行方式が
成立するからである。
彼らの観点を理解しやすいように、我々は、
この二人の苦行者が、仏陀と同じように、
業力の原理を宣揚することに尽力していたし、
犠牲的祭祀やその他の儀式にも反対してい
たことを知る必要がある。
仏陀が菩薩であった時、苦痛を取り除く方
法ーーすなわち、完全に苦痛を超越した
境地について、教えを乞うために、彼らに
会いに行ったことがある。
阿羅邏迦羅は、仏陀に、ひとたび、人々が
彼の教える(無所有処定)を修習したならば、
智慧は自然に発展し、かつ、心霊が覚知する
とき、その時はじめて、その場で浄化を
極めることができ、苦痛から解脱すること
ができるのだ、と言い、そして、その覚知
できる「それ」がすなわち、「自我」である、
と教えた(この観念からいうと、「自我」は
心霊ではなく、また智慧から生じ、かつ
心霊とは分離した個体ではないことが
分かる)。彼は、この「自我」自体こそが、
すべての苦痛の息む処であり、修行者は先に
述べた境地に入れるまで、修行に打ち込ま
なければならない、と言う。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>