南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー40

[ヴェーダンタ哲学の観点ーー「自我(ママ、

以下同様)」は、久しく覆われていた塵俗状態

の中から解脱することができる]

ヴェーダンタ哲学の観点はおおむね

下記の通り:

≪一人の人間が、その知識が成長し、

さらなる高度な智慧を持つとき、心霊

(ママ、以下同様)は更に浄化され、かつ、すべての

世俗的塵事が心の中から消え去った時、

「自我」は出現する。

もっと簡単に言えば、「自我」は久しく

覆われていた塵俗の状態から解脱する事が

出来、この時「自我」はすでに自由を

獲得していて、故に、それは「解脱」と

呼ばれる。

すなわち、一切の苦痛から抜け出したこと

を意味する。

「自我」とは、アノ、遍在しないところは

ないというソレを指し、心霊が塵俗によって

遮蔽されると、みることができなくなる、

そういうモノである。

我々が、ひとたびそれを見ることが

できたならば、ソレは、いたるところに

あって、遍在しないところはない、

ということが分かる。

ソレはあらゆる処において、同じ形態で

存在しており、ソレが我々のもので

あろうとも、他人のであろうとも、

普通のであろうとも、偉大なもので

あろうとも、ソレは「梵」と呼ばれる。

ソレは、万事万物に浸透し、我々が

なんであろうとも、ソレはあなたであり、

すなわち「梵」である。

このことから、すべての「自我

は同じである(+ことが分かる)。

我々が独立した、異なる一人として

立っているのは、塵俗によって覆われて

いるためであって、塵俗の状態を除去

できたならば、すべての「自我」は

同一である(+ことが分かる)。

簡単な例として、空気を比喩にしてみると、

瓶の内側の空気も、外側の空気も、

実際は同じであるように、もし、我々が

瓶を打ち破ったならば、この道理は

ますます明白になる(+であろう)。

しかし、空気を、塵俗性を持つ瓶の中に

詰めたならば、この部分の空気は、

瓶に属するのだ、と考えられる。

我々に(+これに)似たような執着が

あるとき、瓶の内部の空気を、異なる個体

だと見做してしまう。

同様の道理が、小我と宇宙大我

(「最高の自我」と呼ばれるモノ)の間に

も成立する。≫

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>