ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー40
[ヴェーダンタ哲学の観点ーー「自我(ママ、
以下同様)」は、久しく覆われていた塵俗状態
の中から解脱することができる]
ヴェーダンタ哲学の観点はおおむね
下記の通り:
≪一人の人間が、その知識が成長し、
さらなる高度な智慧を持つとき、心霊
(ママ、以下同様)は更に浄化され、かつ、すべての
世俗的塵事が心の中から消え去った時、
「自我」は出現する。
もっと簡単に言えば、「自我」は久しく
覆われていた塵俗の状態から解脱する事が
出来、この時「自我」はすでに自由を
獲得していて、故に、それは「解脱」と
呼ばれる。
すなわち、一切の苦痛から抜け出したこと
を意味する。
「自我」とは、アノ、遍在しないところは
ないというソレを指し、心霊が塵俗によって
遮蔽されると、みることができなくなる、
そういうモノである。
我々が、ひとたびそれを見ることが
できたならば、ソレは、いたるところに
あって、遍在しないところはない、
ということが分かる。
ソレはあらゆる処において、同じ形態で
存在しており、ソレが我々のもので
あろうとも、他人のであろうとも、
普通のであろうとも、偉大なもので
あろうとも、ソレは「梵」と呼ばれる。
ソレは、万事万物に浸透し、我々が
なんであろうとも、ソレはあなたであり、
すなわち「梵」である。
このことから、すべての「自我」
は同じである(+ことが分かる)。
我々が独立した、異なる一人として
立っているのは、塵俗によって覆われて
いるためであって、塵俗の状態を除去
できたならば、すべての「自我」は
同一である(+ことが分かる)。
簡単な例として、空気を比喩にしてみると、
瓶の内側の空気も、外側の空気も、
実際は同じであるように、もし、我々が
瓶を打ち破ったならば、この道理は
ますます明白になる(+であろう)。
しかし、空気を、塵俗性を持つ瓶の中に
詰めたならば、この部分の空気は、
瓶に属するのだ、と考えられる。
我々に(+これに)似たような執着が
あるとき、瓶の内部の空気を、異なる個体
だと見做してしまう。
同様の道理が、小我と宇宙大我
(「最高の自我」と呼ばれるモノ)の間に
も成立する。≫
(+ )(= )訳者。(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>