Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー42★

[有我論]と[無我論]の比較~

簡単に言えば、すべての観点は、二種類に

分けることができるーー「自我(ママ、以下同様)」を

主張する「有我論」と、それを否定する

「無我論」である。

[有我論者は、無為法が真正なる「自我」で

あると主張する]~

有我論者の中で、ある種の人々は、ある種の

モノの「自我」の存在を否定して、これらの

モノは「無我」であると言っているが、

しかし、その他のモノには、「自我」がある、

と言う。

前述した二人の苦行者は、二人とも世俗の

「自我」及びすべての塵俗なる境地を否定

していたが、これらの世俗的な事物は、

「無我」であると考えていた。

しかし、解脱の覚知と、塵俗から解脱した

境地の者は「自我」であると見做した。

ヴェーダンタ哲学にも似たような説明がある。

それらの差異は、ヴェーダンタ哲学は、

「自我」自体は(+皆が言う所の)アノ

<知者>であるということではなく、

心霊(ママ、以下同様)が塵俗から解脱した後、智慧が

顕現した後に造られた境地、かつ、その種の境

地は、万事万物の中に遍在していて、それこそ

が「自我(訳者注)」なのである、と言う。

しかし、ヴェーダンタ哲学もまた前述した二人

の苦行者と同じく、塵俗の境地は「無我」

あると言う。

また、別の人々、たとえば波拘陀迦旃延は、

生命(jĪva)は不朽であり、生命こそが

「自我」であると主張したが、彼らもまた、

その他一切の事物は「無我」であると、

主張していたのである。

尼乾陀若提子に至っては、真正の有我論者

である。我々は、彼の観点は、仏陀の時代

においては、ヴェーダンタ哲学の一種に

属することを知っている。

彼が強調した、現実に即したものの見方は、

現在のヴェーダンタ哲学とは異なっている。

現在のヴェーダンタ哲学の解釈は、比較的

緻密で、哲理とその特殊性を強調している。

概して、有我論者は、有為法に属する個体

(=個人)は、生・滅することはなく、また

と縁によって組成されることもなく、

それは恒常的に自己を保つ(+と主張し)、

(+彼らは)これこそが真正の「自我」

である、という。

この派の観点は、確固として「自我」を

強調し、かつ、二度と苦痛のない境地の中

において、ソレを探し求める。

また、彼らは、生、老、病、死は苦痛である

と認めている。そうであるから、彼らの

「自我」は、少なくとも生・死の束縛を

受けないのだ、と言える;

阿羅邏迦羅は、覚知した境地(以前に説明

した)を、二度と再び生・死の束縛を受け

ない個体(=個人)だと見做している

である。

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者注:「真我」と訳した方がしっくりする

かもしれませんが、前後の整合性を鑑みて、

原文のままの「自我」とします。

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>