[仏教は、万事万物は因縁によって造られる
と主張する]~
仏教は、常見者の言う所の恒常不変なる
「自我(ママ、以下同様)」を受け入れない。無為法
は、不生であり、また不滅でもあり、恒常に
存在しているものではあるけれども、しかし、
それは「自我」ではないし、そのような
「自我」は存在しない。
ただ一切の塵俗的境地(有為法)の消滅
または止息した境地があるだけである;
有為法は「自我」ではなく、常見者が
言うような、恒常的に存在する「自我」
ではない。
ゆえに、仏教は、決して常見論者では、ない。
言い換えれば、仏法の中には、永恒なる
「自我」の概念はない。永恒なる事物は
存在するけれども、それは「自我」ではなく、
寂滅なる境地である。
これは、すべての無常なる事物がすべて
消失してしまった後の状態であり、仏教は、
この境地を「涅槃」または「無為法」と
呼ぶが、しかし、それは「自我」ではない。
別の言い方をすれば、仏教は、空無見者の
如くに、何もかもすべてを否定することは
ないし、断滅論者のように、人は死ねば
すべて終わりだ、とも言わない。
仏教には、以下のような明確な教義がある:
(一)万事万物は、もし、因と縁によって
造られるのであれば、またはそれが形成される
因・縁があるのであれば、因と縁が存在
さえすれば、それは存在する。
しかし、それは無常であり、因縁の変化と
共に変化する。
すでに亡くなった人または事物について
言えば、それが再び現れる、または
再び生まれ出る因縁があるのであれば、
それは再び現れるか、または再び生まれ
出てくる:
もし、その因と縁がすでに存在しないので
あれば、それもまた完全に消失する。
というのも、それらは因と縁によって
組成されているからであって、故に、
我々は、これらの現象自体を、生である
とか死であるとか、偏った見方でもって
断定することはできない。
というのも、それらは自ら生・死を選択
できないが故に。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>