Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー44

[仏教は、万事万物は因縁によって造られる

と主張する]~

仏教は、常見者の言う所の恒常不変なる

「自我(ママ、以下同様)」を受け入れない。無為法

は、不生であり、また不滅でもあり、恒常に

存在しているものではあるけれども、しかし、

それは「自我」ではないし、そのような

「自我」は存在しない。

ただ一切の塵俗的境地(有為法)の消滅

または止息した境地があるだけである;

有為法は「自我」ではなく、常見者が

言うような、恒常的に存在する「自我」

ではない。

ゆえに、仏教は、決して常見論者では、ない。

言い換えれば、仏法の中には、永恒なる

「自我」の概念はない。永恒なる事物は

存在するけれども、それは「自我」ではなく、

寂滅なる境地である。

これは、すべての無常なる事物がすべて

消失してしまった後の状態であり、仏教は、

この境地を「涅槃」または「無為法」と

呼ぶが、しかし、それは「自我」ではない。

別の言い方をすれば、仏教は、空無見者の

如くに、何もかもすべてを否定することは

ないし、断滅論者のように、人は死ねば

すべて終わりだ、とも言わない。

仏教には、以下のような明確な教義がある:

(一)万事万物は、もし、因と縁によって

造られるのであれば、またはそれが形成される

因・縁があるのであれば、因と縁が存在

さえすれば、それは存在する。

しかし、それは無常であり、因縁の変化と

共に変化する。

すでに亡くなった人または事物について

言えば、それが再び現れる、または

再び生まれ出る因縁があるのであれば、

それは再び現れるか、または再び生まれ

出てくる:

もし、その因と縁がすでに存在しないので

あれば、それもまた完全に消失する。

というのも、それらは因と縁によって

組成されているからであって、故に、

我々は、これらの現象自体を、生である

とか死であるとか、偏った見方でもって

断定することはできない。

というのも、それらは自ら生・死を選択

できないが故に。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>