Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー45

(二)しかし、事物が、因と縁から生じるの

でなければ、それは「生れること」を必要と

しないまま存在することができ、しかも、

永遠に消滅することなく、永恒となる。

たとえば、仏陀の述べた涅槃、この種の

存在は、完全に、因と縁及び因縁が顕現させる

果を超越しており、それは完全なる解脱の

境地である。

簡単に言えば、それはすべての因と縁を

取り除いており、残ったものは、因でもなく、

果でもなく、完全に因果を超越しているもの

である。

これが因果の止息した境地であり、もし、

因と果が紛れ込めば、この境地は完全に

消失する。

そして、この止息した境地は、恒常的に

存在しており、それは苦痛の止息する

場所である。

というのも、苦痛は果であり(または果と

して帰納されるものであり)、煩悩と無明の

類の因から生じる、果であるからである。

前述したとおり、涅槃とは、すべての因と

果が滅尽した境地であって、すなわち、

すべての煩悩と苦痛の消失した境地または

状態のことである。

このレベルから話を進めると、仏教は恒常

なる個体(=個人)の存在するのを認めるが、

それは因果のコントロールを受けないもので

あり、しかし、それは「自我(ママ、以下同様)」で

はない。

仏陀は、また、無常なる事物があることを

認めるが、この種の無常とは、煩悩、善行、

悪行、楽しさと苦痛、それらと関係する

全ての世俗的事物を含むものであるが、

しかし、それらは無常で変化するもので

あると考える。

そういうことから、仏教は、一切の虚無主義

または断滅論を否定するものではない。

ここで我々は、もう一度、総括したいと思う:

仏教は、霊魂の不滅論を否定する。

というのも、仏教は、永恒なる「自我」が

あるという観念を、承認しないからである;

仏教は断滅論者でもない。

というのも、それは万事万物はすべて因と

縁によって組成されていると主張し、

すべてが因と縁に依って成就されるが、

また、因縁を超越できれば、それは永恒と

なる(と主張するからである)。

仏教は断滅論者原文ママ、常見論者の間違いか?)

でもない。

というのも、それは二種類の「法」ーー

変動して無常なる「有為法」と恒常なる

「無為法」を主張するからである。

我々が、仏教に外道とは異なる特色を

求める時、それは、仏教においては、

「自我」がある、とは主張しないことを

発見する。

仏教は「常」と「無常」という二種類の

事物の存在を受け入れるが、しかし、

それは、この二者を、「自我」を持たない

事物か、または「無我」自体である事物で

あると、見做しているのである。

そうでなければ、仏教は、前述した何種類

かの外道と、同じものになってしまう。

更に重要な事は、仏教が「自我」が存在する

と主張したならば、すべての苦痛を完全に

消し去った(+後に生じる)智慧と境地を

証悟することはできない、ということである。

この点に関して、我々は、涅槃とは「自我」

なのか、「無我」なのかを討論する時に、

更に、特別詳細に説明を加えることとする。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>