(二)しかし、事物が、因と縁から生じるの
でなければ、それは「生れること」を必要と
しないまま存在することができ、しかも、
永遠に消滅することなく、永恒となる。
たとえば、仏陀の述べた涅槃、この種の
存在は、完全に、因と縁及び因縁が顕現させる
果を超越しており、それは完全なる解脱の
境地である。
簡単に言えば、それはすべての因と縁を
取り除いており、残ったものは、因でもなく、
果でもなく、完全に因果を超越しているもの
である。
これが因果の止息した境地であり、もし、
因と果が紛れ込めば、この境地は完全に
消失する。
そして、この止息した境地は、恒常的に
存在しており、それは苦痛の止息する
場所である。
というのも、苦痛は果であり(または果と
して帰納されるものであり)、煩悩と無明の
類の因から生じる、果であるからである。
前述したとおり、涅槃とは、すべての因と
果が滅尽した境地であって、すなわち、
すべての煩悩と苦痛の消失した境地または
状態のことである。
このレベルから話を進めると、仏教は恒常
なる個体(=個人)の存在するのを認めるが、
それは因果のコントロールを受けないもので
あり、しかし、それは「自我(ママ、以下同様)」で
はない。
仏陀は、また、無常なる事物があることを
認めるが、この種の無常とは、煩悩、善行、
悪行、楽しさと苦痛、それらと関係する
全ての世俗的事物を含むものであるが、
しかし、それらは無常で変化するもので
あると考える。
または断滅論を否定するものではない。
ここで我々は、もう一度、総括したいと思う:
仏教は、霊魂の不滅論を否定する。
というのも、仏教は、永恒なる「自我」が
あるという観念を、承認しないからである;
仏教は断滅論者でもない。
というのも、それは万事万物はすべて因と
縁によって組成されていると主張し、
すべてが因と縁に依って成就されるが、
また、因縁を超越できれば、それは永恒と
なる(と主張するからである)。
でもない。
というのも、それは二種類の「法」ーー
変動して無常なる「有為法」と恒常なる
「無為法」を主張するからである。
我々が、仏教に外道とは異なる特色を
求める時、それは、仏教においては、
「自我」がある、とは主張しないことを
発見する。
仏教は「常」と「無常」という二種類の
事物の存在を受け入れるが、しかし、
それは、この二者を、「自我」を持たない
事物か、または「無我」自体である事物で
あると、見做しているのである。
そうでなければ、仏教は、前述した何種類
かの外道と、同じものになってしまう。
更に重要な事は、仏教が「自我」が存在する
と主張したならば、すべての苦痛を完全に
消し去った(+後に生じる)智慧と境地を
証悟することはできない、ということである。
この点に関して、我々は、涅槃とは「自我」
なのか、「無我」なのかを討論する時に、
更に、特別詳細に説明を加えることとする。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>